未来を拓く授業デザイン〜学びに向かう力を身につける〜教科の視点 道徳特集「感動、畏敬の念」について考え、議論する道徳の時間日常体験における「畏れ」の共有教室の受容的風土・信頼関係畏敬は,非日常的な体験を通して初めて自覚されることが多い。例えば,小さな子供が遊びの中で昆虫の命を奪ってしまったときに感じる恐ろしさや,その子供が同時に抱く命への尊敬の気持ちなど,これまでの経験を想起させ,生命の尊さの内容と関連させながら畏敬の念について話し合わせることで,抽象的な言葉による理解ではなく,人間理解に基づいて畏敬の念について深く考えることができる。 もちろん、現実世界そのものは完全に「美しいもの」ではないですし、人々の思いやり全てに報いてくれるものでもありません。例えば『しあわせの王子』では、補助発問として「王子とつばめは幸せだったのでしょうか。」と児童に尋ねることも提案されています。この発問に対して、児童から「王子やつばめは幸せではなかった。」という意見が出てくるかもしれません(教師用指導書のモデル指導案別案では、これを避けるために「このお話の中の幸せを探しましょう。」という一文が加えられています)。多くの児童は物語の結末を読んで両者が幸せだったと考えるでしょうが、それでも命まで失ったつばめを幸せと思えないという意見が出ることもあり得ます。この児童にとって、教材はそのままでは「美しいもの」ではないわけです。 このとき、教材解釈をめぐる意見対立が生まれるわけですが、どちらの意見の児童も、王子とつばめが幸せであってほしいと願う気持ちはおそらく共有しています。つまり、人間や世界に対する信頼感を欲するという点で同じということです。ただそれが、空の上でかなえられてよしとするのか、物語中の現世でかなえられてほしかったと思うのかに違いがあるだけです。そうであるならば、王子とつばめが幸せではなかったという児童には、この物語をより美しいものにしたいという道徳的・美的な欲求が生まれていることになります。そこで教師が、例えば「それでは、どのような結末にしたいですか。」と続けることによって、児童はその想像力に応じて、幸せな結末を考え、「美しいもの」を実現しようとするでしょう。この「美しいもの」を希求し、自ら表現しようとする意識もまた、「感動、畏敬の念」が目ざす児童の姿ということになります。 ところで、「感動、畏敬の念」のうち「畏敬の念」については、小学校高学年と中学校の内容項目にのみ掲げられています。オットーの『聖なるもの』では「畏敬」の「畏れ」にあたる「畏怖」の性質について、その存在を戦慄すべきもの、理解できないものとして畏れることとともに、その存在に魅せられ引き寄せられることをあげています。小学校低・中学年の児童にはそのような性質も含む「畏敬の念」をもつ・深めることがまだ難しく、また「感動」を抱ける感性を育むことを優先させるべきとい【参考文献】・オットー:山谷省五 訳 『聖なるもの』岩波書店(1968)・ヘルバルト:高久清吉 訳 『世界の美的表現 ――教育の中心任務としての――』明治書院(1972)うことかもしれません。 しかしその一方で、『中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 特別の教科 道徳編』文部科学省(平成30年 p.67)には次の記述があることに注意したいと思います。 このとおり、幼児・児童も幼い年齢なりに「畏敬の念」を感じ取ることができます。ただそれは、壮大な自然現象に向き合ったときの驚きだけでなく、小さな生き物の命を奪ってしまったときのうしろめたさや恐れという、いわば負の感情を通じても得られるものです。教科書教材を用いて「美しいもの」や「すがすがしい心」について考える授業では、そのような負の感情やそれを抱くにいたった体験を児童が語り共有することは難しいでしょう。むしろそれらの感情は、例えば特別活動や休み時間など、教師と児童が直接言葉を交わす場で、児童の本音や告白のようなかたちでこっそりと打ち明けられるものかもしれません。あるいはまた、教師の体験の自己開示をきっかけにして、「先生もそうだったんだ、実は私も。」と共有されていくものかもしれません。 「畏敬の念」そのものを考えることは上の学年段階に委ねるとしても、その基盤となる「畏れ」についての感情の交流の機会は、道徳科のみならず学校教育全体の中で、教室の受容的風土と信頼感のもとで、生み出していくことも可能ではないでしょうか。もちろん小さな命を奪ったこと自体には指導が必要ですが、それとともに例えば、その命を悼む気持ちと罪の意識を教師と児童がどのように分かちもつかが、いまだ言葉にすることのできない「畏敬の念」の芽を一人一人の心に静かに育むのです。23「美しいもの」と、 美しくあろうとすること「畏敬の念」を感じ取る手がかりー
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