特集学びをデザインすることで自分自身をデザインする4ないというユニークな学校を作って、料理とアートが大好きになるように育てます。アートと生活、これこそ最高の文化だと思います。足もとの生活を大事にし、誰もが料理を作るのが大好きになったとき、日本社会は絶対に変わりますよ。たいじあい峙するような、「あなたは一年でここが成長した対よ」と努力や達成度を本人に伝えられる場にする。場合によっては子どもと一緒にその中身をチェックできるような、そういう活動に変えていってほしいですね。 なぜ今不登校の子どもが多いか、なぜ学校は拒否主義の時代は終わっされるのかというと、もう啓蒙ているのに、いまだ啓蒙主義の教育観を捨てられずにいるからです。学校の先生が全部教えてあげなくては、という考えはもうやめたほうがいいのではないでしょうか。 未来は誰にも予測できません。社会に出れば正解のない問題だらけです。でもその時に、あれこれみんなで話し合って、そのつど最適な解を作っていかなければならない。誰が解を作るかといったら、それは次の世代の子どもたちで、その訓練をするところが学校なのです。学校は子どもを信頼して、子どもたちが現代社会の中でさまざまな知りたいことや調べたいことを見つけて挑んでいく、そのことを上手に応援する場であってほしい。 先生は教え方のエキスパートであって、教える内容のエキスパートではありません。子どもたちが学びをデザインできるように、授業ではファシリテーター(進行役)に徹するのです。 知識をため込んだ先生が、どうやってわかりやすく教えてやるかに力を注ぐのではなく、子どもたちが何かやりだしたら、 「それはおもしろいねえ」と励ますほうに注力する。先生はさっと後ろに引いてしまって、できるだけ子どもに任せるのです。 子どもは最初こそとまどうけれども、だんだん任されるおもしろさを知ると、自ら積極的に動き始めます。そうやって子どもたちが動きだしたら、教師はちょっと下がった位置から、ものすごく丁寧に応援しなければなりません。 例えば社会の授業で、高齢化が進んで人口が減ってしまった自分たちの町を元気にするにはどうすればいいか調べる場合、実際、市役所に調べに行ったり、地元のお店に話を聞きに行ったりするのは子どもに任せる。そのかわり、先生は子どもたちが動く前に全て自分で調べておかないといけません。子どもたちが役所に行く時は、「こういう子たちがお邪魔しますからよろしくお願いします」とお願いするのはもちろん、地元の産業を活性化させるにはどうすればいいか、どこのお店に話を聞きに行くべきか、もう教えることで教師自身も学ぶカリキュラムが変われば評価も変わる どんなものに興味をもつか、どういうことに関心を示すかは、子どもが100人いれば100通りそれぞれに違います。思いついたらぱっと行動しないと気がすまない子もいれば、なかなか行動に移さない子もいるし、心の深いところではおもしろいと思っていても、特に反応を示さない子もいる。いいとか悪いとかではなく、それがその子の学び方なのです。 評価とは、それぞれ異なる子どもの学びの物語を発展させていく行為だと考えます。 僕の次男はおもしろい子で、中学卒業後、単身渡英してイギリスのパブリックスクールに留学したのですが、そこでの評価が興味深かった。 寮長の部屋に呼ばれて、 「君の今学期の成績はこれだよ」と評価をとじたものが渡される。そこには物理や化学など、各教科の先生がたからの具体的な評定が書いてあります。 「あなたは今学期こういった点ですごく進歩があった」 「この点については次を期待している」とか、 「ただ、こういう点については前学期と同様、いまだ十分な改善が見られないので、努力が必要である。従ってBプラスにしておいた」とか。全部読み終えると、 「これで君は納得するか」と聞かれる。「自分の努力したことと違う評価がされていたら、向こうの部屋で先生たちが待っているから、行って話してきなさい」と。でもその必要はなかったそうです。そのとおりだということばかり書いてあって、先生はよく見てるなあと感心したそうです。大きな物語でなくとも、子ども一人一人のどこが伸びて、どこが課題なのか、小テストなどをたくさんやって全部見てきているから、その子の学びの物語が書けるのです。 日本もそういう評価方法にしていく必要がある気がします。各教科の先生がたがその子の個性をどう伸ばしていくのか、学びの物語を上手に記述していく。それを児童・生徒の親に見せて、「これでいいでしょうか」と話し合う。「異論があればもう一回考えますが、私は今年ご本人の成長をこういうふうに見ました」と。 つまり評価という活動が一人の人間と真剣に相
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