の視点教科生活教科の視点 令和6年3月、私は36年間の教員生活にピリオドを打ちました。 退職するにあたり、さまざまな振り返りの機会をいただきました。本稿は、振り返る中で感じた、生活科の光と影について書きたいと思います。 生活科が始まった時期と私が教員を始めた時期は、ほぼ一緒です。導入当時は、単に低学年の社会と理科を合わせた教科であるという誤解がありました。その誤解を解くだけの説得力ある説明も不足していました。また、「教科書のない教科」という誤解もありました(平成元年に新教科「生活科」が告示され、平成2年から移行期間、平成4年から教科書が登場します)。 自分自身は、教員になった6年め、平成4年に生活科研究校に赴任したことがきっかけで、生活科を研究することになりました。先輩を見習いながら、必死で授業づくりに取り組みました。当時は体験型の授業であるということが前面に出て、その背景にあるものを理解するのは、自分にとっては難しいことでした。当時の実践はスタンダードがなく、先生が子どもたちをリードしていくような授業が多かったり、学校や先生ごとに取り組みや意識の差が大きかったりしました。だからこそ逆に、現在はもう見られないようなダイナミックな活動ができた時代でもありました。 そんな中、「遊んでいるだけでよいのか。」という認識も生まれ始めました。現在まで言われている「活動あって学びなし」です。 学習指導要領の改訂などを経て、自分自身も、子どもの思いや願いを引き出したり、気づきの質を高めたりできる授業を意識して考えるようになりました。 「活動あって学びなし」は、ずっと課題となっているワードではないでしょうか。なぜそうなるのかについては、二つの面から説明がつくと思っています。 一つめは、「こんな力をつけることを目標に、この16活動をするのだ。」ということの想定が甘かったり、さらには、想定していなかったりするためです。つまり、目標を考えていないということです。二つめは、受け継がれてきた「形」をそのまま続けているためです。受け継がれてきた活動例はありますが、その活動の形だけを追い求めてしまい、何のために活動をしているかわからなくなるような、魂が抜けた授業になっていることが考えられます。 私が、普段の生活科の授業を見ていて、「活動あって学びなし」に陥っているなといちばん感じるのは、表現に関わるところです。子どもたち全員の話を聞ければよいのですが、限られた時間の中で全ての子どもたちにちょうどよい頃合いで対話することは、なかなか大変なことです。 そこで、ぜひ大切にしていただきたいことがあります。それは、「活動のあとは、表現する時間を設ける」ということです。「書かせる」といっても、書けない子には難しいものがあります。そんなときは、先生が子どもにインタビューをしてみてはどうでしょう。ベタな言い方ですが、「楽しかったかい?」で十分だと思います。そこから、「どこが?」「なぜ?」「不満があるのかい?」「どんなふうにしたいの?」などと深掘りしていけば、自然と書く材料、起点が見つかると思います。 私は、学習の冒頭に、子どもたちが書いた言葉を紹介することにしていました。紹介された子は嬉しいだろうし、情報交流の場にもなるし、何より書けない子にとっては、「こんなことを書けばよいんだ。」と書き方を知る場にもなりました。 私が目ざした子どもの表現は、「私は~だと思います。なぜならば……だからです。」という言い方です。ここには、その子なりの見方・考え方が内包されています。その内容が間違いであっても、その子の意味世界で捉えた納得解を共感的に支持することが教師にとって求められる態度と考えます。 例えば、「お母さんが髪を染めました。秋はおしゃれの季節だと思います。なぜなら、山の色も変わるからです。」と言った子がいました。科学的にはまちがいであっても、お母さんと山の木々の紅葉を、情緒的な生活科黎明期の視点から「活動あって学びなし」をどう考えるか生活科をみんなで考える一歩として〜生活科黎明期の担い手から〜元北海道札幌市立北園小学校校長 元北海道札幌市生活科・総合的な学習教育連盟委員長 森もり田た 智とも也や生活
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