教育情報誌 学びのチカラ e-na!! vol.8 (小学校版)
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っぎ書残闕3333生弦一や郎唱+ピアノ)となり、調子にのって翌年すぐよろこめぐしょざんけつろうよみがえぎゅうげんいち18は/あゆんだ…(略)…ぼくは/しんだ/ながらごく少数だ。「歌う・聴く」という行為は実はひらがなある。例えば「克己の意思」という詩句があったとして、それを音読すると「こっきのいし」。これを耳から聴いてその字義を瞬間に理解するのは難しい。「国旗? 医師?」、ナンダロウ。もちろん一定の文脈の中でそれらが発せられるなら理解可能だが、歌の冒頭でそのように歌われてはピンとこない。谷川さんの詩は常に①~③が前面にあり、「これを歌わない手はない!」と僕には思えてくるのである。 僕の最近作〈心って な~に?〉は谷川さんのテキストによるものだ。ぜひとも子どもたちに歌ってほしい内容。「こを歌い、聴くので 『ことばあそびうた』(1973初版)を手にしたとき、なにか歓が体の中を駆け巡った。「現代に甦たわらべうた! “これなら”僕にも合唱曲が書けそうだ」、そう直観し、1975年の夏に一気に書き上げた。東京藝術大学の大学院1年生のときだった。“これなら”というのは、いわゆる私的な情感のいっぱいつまったような詩ではとても書けないと思っていたのだ。それが〈ことばあそびうた Ⅰ〉(女声合〈ことばあそびうた Ⅱ〉を作曲した。これは男声合唱+ピアノ。どちらも言葉がリズミックに飛び跳ねる、優しく語りかける、そんな嬉遊曲(ディヴェルティメント)のような合唱曲になった。それ以来、谷川さんは僕が勝手に注目する、僕の作曲になくてはならない大切な詩人となった。 次に出会った詩集はなかなかにとんでもない詩集だった。いや、詩集という概念からまったくはみ出ていた。『タラマイカ偽』(1978)という、一見ワケのわからない「代物」だった。タラマイカという架空の国(土地)、偽書だからニセ、残闕とは一部が欠けて不完全、つまりいわゆる詩集ではありません、とタイトルが語っているのである。ちょうど東京混声合唱団からの初委嘱をいただいたので、このテキストで思いっきりワイルドな、得体の知れない作品を書いてやろうと奮い立った。「カリンギ」という叫び、ピアノの新しい書法、トライアングル8本など、通常の合唱曲からはみ出した異例の作品になった。 そのあと出会ったのがひらがな長編詩の詩集『みみをすます』(1982)。「みみをすます」、「えをかく」、「ぼく」ほさんの挿絵がすごく楽しい。3群の児童合唱による〈ぼく〉を作曲することになった。これはNHK東京児童合唱団にして初めて可能な編成だった。まだ地声の小学校低学年、高学年から中学生、大人の声に近い高校生、この3群にコントラバス3人、打楽器2人びのようなものという、バブリーな時代ならではの大編成合唱曲となった。1984年初演。当時の合唱団指揮者の古橋富士雄さんなくしては実現できなかったと今にして思う。「ぼくは/うまれた…(略)…ぼく(もういいかい/もういいよ)」(谷川俊太郎『みみをすます』/1982年 福音館書店)。なんとも心躍る作曲だった。 谷川さんの詩に僕はなぜこんなに惹かれるのだろう。思うに、①内容が哲学的・普遍的、②わかりやすい、③耳から入ってくる、この3つの理由がとりあえず浮かぶ。①は秀満たしている要件。②と③を満たす詩、しかも深い内容のあるものは残念か3編が収められている。柳れた詩は必ず

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