ー3特集石いし井い 英てる真まさ学びが広がる授業デザイン提言 アクティブ・ラーニングや主体的・対話的で深い学びの重視のように、「教えること」から「学び」へ(教師主導から学習者主体へ)、「一斉授業」から「学び合い」へといった二項対立図式で授業の改革が繰り返し叫ばれてきました。さらに、1人1台端末が整備されるに伴って、「個別最適な学び」という言葉で、全員が同じ内容を同じペースで同じ場所で学ぶ必要もなく、教室や学校や授業を経由せずに子どもたち一人一人が自ら自由に学ぶようになればよいのではないかという考え方も広がりつつあります。 しかし、どれだけ「学び」に光が当たっても、大人の責任を放棄しない限りは、「教えること」に限らず、教師、あるいは子どもの学びと成長を支援する他者の仕事がなくなりはしません。「学び」に光が当たることで、より縁の下の力持ちのような形で教師の指導性は見えにくくなっていきますが、しかし、確かに存在はしています。「子ども主語」の学びや授業を追求するからといって、それを支援する「教師主語」の授業研究をおろそかにしてはなりません。 授業という営みは、教師と子ども、子どもと子どもの一般的なコミュニケーションではなく、材(教材や主題や学習材)を介した教師と子どもたちとのコミュニケーションです。学習者中心か教師中心か、教師が教えるか教えることを控えて学習者に任せるかといった二項対立の議論は、この授業という営みの本質的特徴を見落としています。 授業という営みの本質的特徴をふまえるなら、子どもたちが教師とまなざしを共有しつつ材と深く対話し、教科の世界に没入していく学びが実現できているかを第一に吟味すべきです。つまり、その瞬間、自ずと教師は子どもたちの視野や意識から消えたような状況になっている学びです。教師主導は教師を忖度する授業に、学習者主体は材に向き合わない授業になりがちです。教師主導でも学習者主体でも、子どもを引き込み、成長を保障する授業は、材を介して教師と子ども、子どもどうしが向かい合い、ともに材に挑む三角形の「共同注視」の関係性になっています。 教師の仕事は、その教科のうまみを得られるような、できるだけホンモノでナマな教材を考え抜き(教材研究)、材と子どもたちとのいい出会いを組織し(導入)、子どもとともに横並びでその材と対話し、ときにはナナメの関係に立ちながら、うまみを感じられる入り口をさりげなくさし示し続けることです(発問とゆさぶりによる展開の組織化)。さらに、「まだやめたくない」「じゃあ○○はどうなっているのかな」「これって授業で習ったことと関係あるんじゃないか」と、授業の先に、授業外、学校外の生活で引っかかりを覚え、立ち止まり、学びや追究を始めたり、自分と同じ興味や問題を追究している学校外のホンモノを伴走者として学び始めたりして、生活場面や生きることを豊かにしていく。そんな子どもたちの姿を願い目ざし続けることが大切です(学びへの導入としての授業)。 1人1台端末が日常化した授業においてこそ、共同注視関係が重要となります。ICTを文具として子どもたちに使い方を委ねるということは、必ずしも教師を介さなくても、端末の先にある知や人や世界とつながれることを意味します。また、そうした「子ども主語」で考えてこそ、ICT活用は学びの充実につながります。ただしそれは、伴走者の存在(共同注視関係)があってこそです。同じ画面(対象世界)を共有しながら、子どもたちどうしのみならず教師もともに学び合い、ときに情報の信ぴょう性を問いかけたり、調べ方や目のつけ所についてさし示したりする。あるいは、子どもに委ねる一人学びの時間や自由度が拡大する分、個々人の課題設定や取り組み方へのコーチングや、折にふれて共通課題をめぐって考えをつなげ深めるファシリテーションが重要となるのです。京都大学大学院 教育学研究科 准教授1. 「子ども主語」と「教師主語」の二項対立図式を超えて提言「子ども主語」の主体的な学びをデザインするために
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