「差別と人権」の視点から考える(6年生)「自粛警察」をもとに考える(5年生) 新型コロナウイルス感染症は,誰もが罹患するおそれがあり,そのリスクをゼロにすることは困難です。そして,新型コロナウイルス感染症に起因するいじめもまた,誰にでも起こりうることだといえます。自分ではどうしようもない状況に対してなされる不公正な態度や行動は,差別であり人権侵害です。また,その状況を看過することも,差別や人権侵害を是認しているのだといえます。いじめを他人事としないという学級文化の創造こそ,コロナ禍の学校現場における喫緊の課題だといえます。 6年生の教科書に掲載されている『ひきょうだよ』という教材は,いじめや差別の問題における傍観者の立場について考えを深めることができます。 いじめはどこでも起こりうるからこそ,新型コロナウイルス感染症を理由にして偏った見方や行動をとるような風潮が,学級の中にあるのではないかということを問います。子どもたちは,ワークシートに思いを書くなかで,不公正な言動を見過ごさないことへの思いを強くすることができるでしょう。 教科書教材をもとに,子どもたちの体験や身近にひそむ諸問題を関連づけることが,これからの道徳科の学習に求められると考えます。 コロナ禍の社会で現れた,他者を監視し,自粛を強いる,いわゆる「自粛警察」は,社会不安に伴って人々の間で生じる感情が,自己を正当化することによって攻撃性に転化したものだといえます。特に,休校期間中に子どもたちの活用頻度が増えたソーシャルメディアでは,敵意や差別感情が過激な誹謗中傷として噴出する現実があります。 5年生の教科書に,『だれかをきずつける機械ではない』という教材があります。自分がもっている正義の心の実現について「ネットいじめ」をもとにして考える内容です。 この教材の問いで「ネットいじめが起きてしまうのはどうしてなのか」を考えたとき,子どもたちは,相手の立場で考えることの大切さについて語るでしょう。そのうえで,下のような資料を提示します。子どもたちが教材をとおして考えたことをもとに,コロナ禍での社会の現実を見つめるための資料と問いです。 この資料と問いをとおして,子どもは偏った見方や考え方ではなく,社会や集団において公正・公平に行動し,社会正義の実現を目ざすために大切なことについて考えることができます。そして,この現実に対する考えを交流させていくなかで,集団として差別や偏見をなくしていくために,自分とは異なる考え方にも心を配り,不正な行為をしないことが大切だという,子どもたちなりの共通了解を見いだすことが可能となるでしょう。 学校での携帯電話の安全講習会をきっかけに,「ぼく」はどうすればネットいじめを防ぐことができるのか考える。お母さんが見せてくれた新聞記事には,携帯電話を使うときの約束事が書かれており,そこでネットいじめを防ぐヒントを見つける。クラス全員で考えたいと思った「ぼく」は,次の日,ネットいじめを防ぐ方法について話し合い,文章や写真を送る人が送る前に「自分がもっている正義の心」に問いかけることが必要だ,と結論を出す。 6年生の「ぼく」は,低学年の頃に仲がよかったたかひろさんがいじめられても何もできずにいた。クラスメイトのゆみさんが「やめなよ。」と言った時も何もできなかった。「ぼく」は,転校することになったたかひろさんの最後の登校日に,これまでのことを謝る。すると「何もしてくれなかったのに,最後にそんなことを言うなんて。ひきょうだよ。」と言われる。 教材をもとに,いじめと傍観者について考えたうえで,自分に返して考える「深めよう」の場面で,下のような資料を提示することができます。あらすじあらすじ 11教科の視点 道徳特集 コロナ禍を生きる
元のページ ../index.html#11