724年734年735年737年741年742年743年745年747年752年753年聖武天皇即位畿内七道大地震(天平大地震)天然痘大流行干ばつ・飢饉,天然痘大流行光明皇后の兄藤原4兄弟の疫病死国分寺建立の詔近畿地方で風水害大仏造立の詔※,墾田永年私財法天平地震(美濃国大地震),甲賀宮(紫香楽宮)山火事飢饉大仏完成,開眼法会鑑真(仏教や医学に詳しい)来日近年の主な自然災害と感染症2011年2012年2014年2016年2018年2019年2020年東日本大震災(東日本一帯)MERS中東呼吸器症候群を確認,新型インフルエンザ等対策特別措置法成立豪雪(太平洋沿岸部一帯), 8月豪雨(広島・兵庫など),土砂災害(広島),デング熱ウイルス国内で確認,御嶽山噴火(岐阜・長野)熊本地震(熊本)猛暑,西日本豪雨(岡山・広島など広範囲),大阪北部地震(大阪)台風15・19号(千葉・長野など),九州北部豪雨(福岡・大分など)新型コロナウイルス確認,7月豪雨(九州北部)参考文献 内海孝『感染症の近代史』山川出版社,2016,岡田晴恵『病いと癒しの人間史:ペストからエボラウイルスまで』日本評論社,2015,立川昭二『日本人の病歴』中央公論社,1976(年表)青木滋一『奈良県気象災害史』養徳社,1956,北原糸子・松浦律子・木村玲央編『日本歴史災害事典』吉川弘文館,2012※大仏建立発願の詔勅の中には,「天然痘」という言葉は出てこない。 聖武天皇在位中の自然災害と感染症に疫瘡が大いに発る。冬に至るまでに,豌わん豆ず瘡かさ,俗に裳も瘡がきという疫病で多数の死者が出た」※1とあります。記録に残る中では,日本最初のウイルス(天然痘)によるパンデミックといえる事例です。735年は,遣唐使の帰郷,新羅からの使節団や唐人,ペルシア人の来日が重なった年であり,日本の人口の3割程度が天然痘で死亡したといわれています。疫病で多くの農民が死んで作付けが減少すると,飢饉が起きます。飢饉が起これば,栄養状態が悪化し,さらに疫病が広がります。朝廷は,この危機を「墾田永年私財法」で乗り越えようとしたわけです。これは,国有地の私有化を認めることで生産意欲を高め,食料増産を図ろうとした政策です。また,743年には,「廬舎那仏(大仏)造立の詔」を出し,人びとの心を結集するために東大寺に巨大な大仏を建立します。このように,奈良時代にも外国からもたらされた感染症が社会の変化や改革のきっかけになったわけです。 日本の感染症研究の礎を作った,新旧1000円札の肖像画の人物である北里柴三郎と野口英世の功績を感染症という視点で改めて見直してみましょう。1892年ドイツのコッホ博士のもとから帰国した北里柴三郎は,研究する場所がないと嘆いていました。このことを知った福沢諭吉が芝公園御成門脇の私有地を寄付し,北里は伝染病研究所を設立しました。当時,「世界においてドイツベルリンを除いて他に比類ない」※2と伝えられた伝染病研究所でした。その後,1894年に北里は香港でペスト菌を発見します。世界中で3度のパンデミックを起こし,1億人を優に超える犠牲者を出したペストの病原菌は北里らの功績で特定されるに至りました。ちなみに北里は,福沢への恩返しとして,慶應義塾の初代医学部長に就任しています。 次に,外相小村寿太郎らによる1899年に発効した治外法権の撤廃と感染症を関連付けてみます。治外法権の撤廃により外国船への検疫が可能になりました。それまでは治外法権により,外国人居留地への立ち入りはもちろん,日本の規則による外国船への検疫も義務付けることができませんでした。1899年,検疫の最前線である横浜検疫所に赴任したのが,アメリカに赴く1年前の野口英世です。独・仏・英語の心得があったため白羽の矢がたち,伝染病研究所から転任し,検疫にあたりました。その後,さらにアメリカのロックフェラー研究所に赴任した野口は黄熱病を研究します。同時期に日本赤十字社の創設に尽力したのが渋沢栄一です。こちらは新1万円札に登場します。こうしたお札の肖像画の人物が,感染症や医療と深い関係にあることがわかります。※1 立川昭二『日本人の病歴』中央公論社,1976※2『中外医事新法』305号,1892.12.10,p512.歴史(奈良時代):聖武天皇と感染症・自然災害3.歴史(明治時代):お札の肖像画の人物(野口・北里・福沢・渋沢)と感染症1.政治:私たちの願いを実現する政治山路を登りながら7教科の視点 社会特集 コロナ禍を生きる
元のページ ../index.html#7