注 1) 以下の文献で詳しく説明されています。『モーツァルト最後の四年』C.ヴォルフ著,礒山雅訳,春秋社,2015。 なお,ここでいう二つの葬送歌とは《わが最期の刻が至るなら》と《主イエス・キリスト,いと高き宝よ》とのこと。 2) 『ウィーンのモーツァルト』丸山桂介著,春秋社,1990  音楽体験のさらなる発展と深まりをめざし,知識を踏まえて『レクイエム』をさらに聴き進めていくと,引用や象徴に類する例は他にもいくつも見出されてきます。それらを丁寧に調べていくと,主要な旋律が,この曲以外の要素であった素材や観念と,それぞれ深い関連性を持っていることがわかってきます。そして極論すればこの曲は,他からの素材の集合体であるかのような気さえしてきます。 モーツァルトが死の直前に,絶望的な気持ちとわき上がる感情だけで情緒的に書き上げたという,ロマンティックな「レクイエム伝説」に基づく憶測は,このような引用や象徴の事実を知ると,果たして本当だろうか,と疑われることになります。もちろんモーツァルトは『レクイエム』という曲種の性格上,悲しみや苦しみの様子を痛切な表情で描き出していきますが,しかしそれを個人的な表現に留めることなく,当時ヨーロッパで広く知られていた様々な音楽,旋律,音型,思想などを客観的に総合して作品を作り上げようとしたのではないか,と考えられてくるからです。私たちもこの曲を,モーツァルト辞世の作として感傷的に体験するのではなく,神童が自らの創作活動をさらに積極的に進めていくために,当時の音楽を総合しようとした,新たな境地にある作品として体験すべきではないか,とさえ思えてきます。(*1のヴォルフの著書も,そのような晩年のモーツァルトの未来志向性を明らかにしています。) 「伝説」を越える  さて,いかがですか,引用や象徴の事実や可能性を知ることで,それまで何気なく聞いていたり歌っていたりしていただけの名曲が,全く別の印象を,あるいは深い意味を伴って響いてきたりするようにならないでしょうか。 今回は導入として引用と象徴について簡単に紹介するために,両者を含む作品であるモーツァルト『レクイエム』だけをとりあげましたが,次回からは極力,複数の実例を挙げ理解を深めていきましょう。「引用」「象徴」それぞれに関して別個に,まず交響曲や序曲のような宗教曲でない作品,それから宗教曲ないしはそれに関係する作品についてと,順に考えていくことにします。 ﷯ 以上,モーツァルトの『レクイエム』の最初の部分から「引用」と「象徴」の実例を挙げてみました。 この例のように音楽で一般に「引用」は,他の作品から旋律などあるまとまった部分を抽出し,それを自作中に用いたもの(あるいはその行為)と考えられます。他の作品とはこの場合のヘンデルのように他の作曲家の作品からの場合が多いですが,自作からの場合もあり得ます。また引用された箇所は新たな作品,新たな文脈の中での意味を持ち,それが聴取者,演奏者などによっても認識され体験される――引用を意識することで体験の質が変わってくる――ことにもなるでしょう。 また「象徴」は,曲の中で用いられた特定の旋律や音型,さらに細かい音程,音高や音価などに,音楽外の具体的な事物,あるいは音楽を越えるような観念などを表現させたもの(あるいはその行為)と考えられます。それによってその音型などが単なる表面的印象を越える真実味をもって響いてきたりします。さらには個々の音型の真実味豊かな味わいから,私たちは,よりいっそう普遍的な,それを創出できる人間というものの素晴らしさや人間性の深み,あるいは宗教的な啓示まで感得するに至る場合もあるでしょう。 「引用」にせよ「象徴」にせよ,現在,目の前にあるその曲のサウンドを味わうだけでは理解できません。その曲以外の作品,約束事などの知識が必要です。ですからまずはそれを知りましょう。…すると音楽体験にも,次のように驚くべき(!)発展性と深まりが生じてきます。  よく「クラシック音楽は奥が深い」と言われます。たしかに,重厚なオーケストラサウンドや内面的なピアノソナタの響きなど聴くと,何となくそう思いますね。単に「旋律がきれい」とか「ハーモニーに酔う」などという表面的な(?)印象を越えて何かありそうな…。響きからの素朴な印象を越えて,もっと先に深く度重なる感動がありそうな,つまり重層的な感動体験でもできそうな…。でも,「具体的にどう奥が深いの?」と問われると,言葉に詰まったりしませんか。 奥が深い理由はいろいろあります。たとえば,響きの背後に実はそれを支える素晴らしい構造的な秩序がある場合。ベートーヴェンの交響曲など聴き込んで,音の組み立て方,曲の造りの見事さに感動したことがある人も多いでしょう。ところでそんな秩序への感動とは,その曲が本来持っている秩序(つまりその曲以外からの要素など入り込んでいない秩序)への感動ですね。でも奥深さは必ずしもその曲自体に起因するとは限りません。その曲以外から持ち込んだ旋律とか音楽要素,あるいは観念が,そのような奥深さの主因になっている場合もあります。 この連載で述べていく「引用」や「象徴」は後者の場合に該当します。具体的で身近な実例から入るほうがわかりやすいでしょう。  広く聴かれ,歌われ演奏もされ話題性も豊富な名曲…たとえばモーツァルトの『レクイエム(死者のためのミサ曲)』K626は,日本で最もよく体験されているクラシック音楽の一つですね。神童最後の作品,しかも未完で,伝説的な話題にも事欠かない。たしかにこの曲を聴いたり歌ったりと,理屈抜きに体験するだけで,言いようのない感動を覚えるのは事実です。でも,この『レクイエム』中のある旋律,感覚的に味わっているだけのその旋律が,実は別の作品からの意味深い「引用」であったり,ある約束事に基づいて何かを「象徴」的に表現している,などとしたら,それを知ることによって,作品からの味わいもグッと深まるのではないでしょうか。そのような事実や可能性を明らかにして,響きの背後に隠されたメッセージなど読み解く楽しみを味わいましょう。 ﷯ たとえばこの曲冒頭,入祭唱の前奏で木管楽器にすぐ現れる旋律は,作品中で最も重要な,「レクイエム主題」と言えるもので,やがて合唱で歌われます(譜例1)。ところでこの旋律の核とも言うべき部分は実はバロック時代最後の大家ヘンデルの作品『キャロライン王女のための葬送アンセム』HWV264の中でも使われていた動きで,有名なキリスト教ルター派の二つの葬送歌が共有していた旋律(譜例2)とされます*1。ここでモーツァルトがこの旋律を「引用」したと言えるでしょう。バロックの大家も用いた旋律を使うことでモーツァルトの音楽は説得力と,時代や地域を越える普遍性を示すことになり,その音楽を体験する私たちの感動の奥行きも増すことでしょう。 実例からのアプローチ
 あるいは,やがて合唱が現れると,それに重なってヴァイオリンがオクターヴ下行を伴う印象的な音型(譜例3の★)を奏し始めますが,これは嘆願の深い悲しみの吐息を「象徴」している,などと考えられます。 これは実はヨーロッパの音楽の伝統的な約束事に従っての解釈です。つまり,ルネサンス,バロック時代以来,「音型論」という音楽理論上の考え方があったのです。それによれば,この「悲しみの吐息」の音型は「ススピラツィオ」と呼ばれたりしています*2(この音型論については少し専門的な知識も必要ですので,後に連載の中で説明します)。
譜例1
譜例2
譜例3
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 ところで筆者は昔,神童モーツァルトが活動していたウィーンの中心,シュテファン大聖堂で,この『レクイエム』を演奏指揮したことがあります。その聖堂は,モーツァルトが婚礼の式を挙げ,死んだときには葬儀も執り行われた場所,そして筆者が指揮した11月初旬の時節は,全ての霊が聖堂に戻ってくるという万霊節の時節でした。ですからこのとき神童の霊も帰ってきていると信じられていました。その演奏中,現地のオーケストラ(ウィーン・フォルクスオーパー交響楽団)が奏でたこの音型が聖堂いっぱいに,戻ってきた神童の霊に呼びかけるかのように悲痛極まりなく鳴り響いたのを今でもまざまざと思い出します。それはこの音型が理論を越えて,まさに「嘆願の深い悲しみの吐息」として現実の時空に現れ出た瞬間でした。「象徴」に響きの実体が与えられた,二度と起こりえないような,アウラ(オーラ)出現の瞬間でした。
「引用」と「象徴」 〜重層的な音楽体験から〜
(c)石塚朝子
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