1)譜例の第3小節冒頭の和音。その響きが何調の響きなのかわからなくなる、独特の不思議な印象の和音。その調の構成音でない音(非和声音)を多く用いることで、その調の性格がぼかされることによる。

2)『[決定版]ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の探求』青木やよひ著、平凡社、2007。

及び『シューマン 愛と苦悩の生涯』若林健吉著、ふみくら書房、2013(復刻版)。

3)『饗宴』プラトーン著、森進一訳、新潮社、1968、p125。

4)『星の王子さま』サン=テグジュペリ著、河野万里子訳、新潮社、2006、p108。

 

 とは言うものの、このドビュッシーの曲の場合はヴァーグナーの曲から強い影響を受けて引用したというよりも、基本的には自らの楽想を発展させるため意識的に他の作曲家の作品を引っ張ってきて活用したと言えそうです。でも、なかには、別の音楽家の作品等から決定的な影響を受けたことにより、その音楽家の旋律やその旋律の性格が「流入」して本質的に重要な役目を演じ、新たな芸術上の価値が見出されるかのような音楽もあります。たとえばドイツロマン派の代表的な作曲家R.シューマンが交響曲第2番ハ長調作品61やピアノ作品『幻想曲』ハ長調作品17などで引用したと考えられるL.v.ベートーヴェンの歌曲集『遥かなる恋人に寄す』作品98の第6曲からの旋律です。この旋律の線(譜例3)をシューマンはほぼそのままそれらの作品で用いています。 ベートーヴェンとシューマン……共感する想いを芸術に昇華させて  前回は音楽での引用と象徴について、主に1曲だけ(モーツァルト『レクイエム』)を実例として、その概略を述べました。今回から複数の例を取り上げつつ、まずは引用から考えていきましょう。最初に宗教曲以外の作品中にあるテーマなどからの引用について。 前回も述べたように引用と象徴とは,Aという作品に,Bという曲の旋律や他の観念などが現れることをいいます。そうなると、ある意味で他の曲や観念からその作品が「影響を受けている」とも言えますね。一般に影響関係というのは明確に指摘するのは難しい。作曲者が「私はあの曲から影響されてこの曲を書いた」などとはっきり言うことは少ないですから。でも鑑賞や演奏に際して影響関係を知っておくことは重要で、知っているかいないかで曲の解釈が本質的に変わってしまう場合もあります。(「影響」にあたるinfluenceという言葉は語源的には「流入」などと言う、もっと具体的ともいえる意味だったし、また前回、モーツァルト『レクイエム』を取り上げた際にも述べたように他からの素材の集合体とさえ言えそうな作品もあるからです。)また、単に知っているだけでなく、その引用の意義や価値をも深く味わいたいもので、今回はその辺まで考えてみましょう。  ではまず、ピアノを習った人は弾いたことがある場合も多い、フランス近代の音楽家C.ドビュッシーが作曲したピアノのための組曲『子供の領分』の第6曲〈ゴリウォーグのケークウォーク〉から始めましょう。ゴリウォーグは当時知られていた黒人の男の子のキャラクター、ケークウォークは黒人のダンス音楽の一種。曲はジャズを思わせる軽快で陽気、弾んだ性格でピアノ学習者にも人気があります。でもその中間部分にヴァーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』前奏曲の冒頭のモティーフがいきなり現われて、つまり引用されて(譜例1)、弾き手、聴き手を「おや!?」と思わせますね。そう、調性崩壊のきっかけになったとされる、あの「トリスタン和音」*1 に進む旋律です(譜例2)。 ヴァーグナーをドビュッシーは…… 尊重しつつ揶揄しつつ
目 次 ページ 「引用」の諸相1 〜他の作品のテーマからの引用〜

譜例1

ドビュッシーは若いときにヴァーグナーに夢中だったということで、このモティーフの歴史的な意義もわかっていたでしょう。でも後年はこの19世紀の楽劇の大家の仕事に批判的になっていて、それが〈ケークウォーク〉でのちょっと奇妙な引用の仕方にも表れているようです。つまり当モティーフの、いかにも優雅「そう」、だがしかし唐突な出現に、それを軽くあざ笑うかのような表情の音型が続く。ヴァーグナーという巨人が生み出した、一つの時代を終わらすに際しての大袈裟なほどの「優雅さ、ロマンティックさ」(ある意味、これは「暮れゆくヨーロッパ」の象徴でもある)を軽くあしらって、新大陸から来た活発で新鮮な音楽の中に埋め込んでしまうかのようです。そのようにこのモティーフは性格を変えられ引用されています。もちろんこのモティーフは新たな居場所でネガティブな印象ばかり与えるものとはなっていません。活発な〈ケークウォーク〉中にあって、主部と鮮やかな対比をなす穏やかな中間部を形成しています。新たな文脈の中で新しいレゾンデートル(存在意義)を与えられたわけです。 もちろん異なる文脈で用いているので、そのつもりで聴かなければ、旋律線の類似性・同一性に気づかないかもしれません。でも、これらの旋律線を含む3曲の底には共通して、作曲家たちの実生活に関係する強力な意識が流れていました。それは「愛する人を想う気持ちや、それが相手に届いてほしいという願望、必ず届くという確信など」とでも言えるでしょう。 そんな意識の存在は特に『遥かなる恋人に寄す』と『幻想曲』との間に強く感じられます。一方は、遠く離れて暮らす「不滅の恋人」に、歌曲集の最後で静かに深く万感の想いを込めてベートーヴェンが歌いかけた曲、その旋律です。そして一方は、クララとの結婚が、彼女の父に猛反対されて容易に実現せず悶々としていたシューマンが、自分の気持ちが彼女に届くはずと祈るように第1楽章の最後に置いた旋律です(譜例4)。  いずれも実生活上の事情などについては詳しい解説書もありますのでそちらをご覧ください*2。とにかく両作曲家とも、相手の女性のことを深く想うものの、その想いが遂げられない非常に厳しい状況にありました。ですからこの引用は、そんな二人の作曲家が、共に複雑で苦しい胸の内を吐露し、またそのような現実の感情を、味わい深い芸術表現へと昇華させたものと言えるでしょう。  いずれにせよ私たちはこの両曲から、個別の味わいを越えて先述の「愛する人を想う気持ちや、それが相手に届いてほしいという願望、必ず届くという確信など」を感じ取ります。旋律の背後に、人の愛情の深さ、そこから湧き出る美を、共通して感じ取るのです。それはこれらの旋律が鳴り止んでも、ずっと心に残る「変わらぬ、不滅の」ものとなります。 ここに来て、引用という行為のとても奥深い局面に遭遇します。すなわち両旋律の関連性を深く意識することで私たちは、変らぬ愛や美「そのもの」の姿を垣間見ることになるわけです。それは古代ギリシャの哲人プラトンが、いわば「神的な美」について記した次のような言葉を思い起こさせます。 …その美は、それ自身が、それ自身において、それ自身だけで、一なる姿をとってつねに存在しているのです。これに対し、他の美しいものは一切、その、彼方にある美にあずかっているのですが、…*3 私たちは、引用箇所での旋律の共通性などから、別の曲として見かけは違っても「常に変わらず存在する美や愛」に気づくでしょう。引用という行為のおかげで、愛や美の深みを実感し、「彼方にある美」に至る道を見出せるかもしれないわけです。それは、ある美しいバラの花を(見かけではなく心から)愛し、そのかけがえのなさを強調する星の王子さまに、賢明なキツネが確認するかのように語る次のような言葉をも連想させます。 じゃあ秘密を教えるよ。とてもかんたんなことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない*4 この「いちばんたいせつなこと」こそ究極の美や愛で、それらへの道が「引用」によって、引用された旋律を「心で見る」ことによって、開かれると言ったら大げさでしょうか。 「引用」から美、愛そのものへ
 さてベートーヴェンのこの旋律をシューマンが引用したのかもしれない、もう一つの作品、交響曲第2番では少し様子が異なります。シューマンがクララとの結婚後に書いた交響曲で、幸せな家庭生活の時期の作ではありますが、精神病の兆候がはっきり現れた頃でもあったためか、楽想は明るい印象のものばかりではありません。むしろ、緩徐な第3楽章などは悲痛な趣さえ湛え、それが聴く者に迫ってきます。 第4楽章は打って変わって明るく力強い、勝利に到るかのようなフィナーレになります。例のベートーヴェンの旋律とも思われるものが現れるのはこの楽章の後半です(譜例5)。 「引用」からさらなる発展へ
が、楽譜をよく見ると、ベートーヴェンとは少し旋律の形が変わっています。実は、第2交響曲全体を注意深く聴いたり分析すればわかってくることですが、この旋律は当交響曲中での楽想の発展の結果、現れたとも解釈できる、いわばアンビヴァレント(両義的)な性格なのです。ですからこれを果たして引用と断言してよいかは疑問でしょう。 しかし私たちがこのシューマンの旋律を聴くとき、もしベートーヴェンの旋律を意識し、同時に当交響曲中での楽想の発展を思うなら、この旋律は引用箇所での等身大の意味、つまり、単に引用され少し変形された旋律という意味をさらに遥かに越えて、大きな意義や価値を持つことになるでしょう。すなわちベートーヴェンには先述したような真の美や愛に通じる穏やかで優しい旋律がある一方、他方には「運命」と呼ばれる第5交響曲のように闘争から勝利に至る力強い歩みを表現するかのような構成法がありますね。両者はベートーヴェンの異なる側面として別々に現れたり解釈されることも多い。だがシューマンは第2交響曲において、ベートーヴェンから引用した旋律を自らの曲中に同化させつつ、全体を作曲していくプロセスを通じて、両者(優しさと力強さ)がシューマン流に完全に一体化した独自の世界を成立させていったのではないでしょうか。実生活上での穏やかで誠実な愛情(クララとの)を踏まえて、精神病等の人生の苦悩に打ち勝ち勝利に到る世界へと…。ここに至り引用という行為は新たな芸術(この場合は本格的なロマン派交響曲)の創造の本質的な源泉の一つとなったとさえ言えるでしょう。 以上、今回は「引用」について、複数の例によって、その実際や意義を探ってみました。ある作品中に引用を発見するのも楽しいですが、深く味わい、その意義や価値について考えてみるのも興味深いですね。文字数が尽きてきたのでこれくらいにしますが、引用の例は他にも数多くあり、たとえばブラームスのヴァイオリン・ソナタ、ショスタコーヴィチやマーラーの交響曲、R.シュトラウスの交響詩など枚挙に暇がありません。その指摘、解説などもネットや書籍に多くありますので、ご自身でも探してみてください。

譜例2

譜例3

譜例4

譜例5

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