1)『ファウスト』第一部、ゲーテ著、相良守峯訳、岩波書店、1958年、p303f.

2)CDやwebなどでアンブロシウス聖歌を視聴することができます。

例えば、下記はナクソス・ミュージック・ライブラリーに公開されている音源です。

http://ml.naxos.jp/work/6341348

http://ml.naxos.jp/work/6341349

 さて、ベルリオーズはあまりにユニークな引用を行ないましたが、次にもっとスタンダードな!?例をみてみましょう。過去の音楽から引用するという行為を自らもしばしば行い、また後世には今度は自分の作品が、あるいは自分が引用した音楽が、他の音楽家によって盛んに引用されもした、という音楽家に、あの有名なJ.S.バッハがいます。 そのバッハが自らの作曲の源泉としてよく用いた素材にコラールがあります。コラールとはドイツ・プロテスタントの賛美歌のことです。たとえばドイツ語圏で最も有名なコラールに、あの宗教改革で有名なマルティン・ルターが作詞作曲したと言われる『神はわがやぐらEin’feste Burg ist unser Gott』があり、バッハはこのコラールをそっくり引用して教会カンタータ第80番BWV80を構成し、後にメンデルスゾーンもまたこのコラールに基づいて交響曲第5番『宗教改革』作品107の第4楽章を書きました。 ここではこのコラールに劣らずよく知られた別のコラールを含む例で、さらに大きな広がりを示す引用関係を紹介してみましょう。バッハの教会カンタータ第61番BWV61や第62番BWV62などは同一のコラールを基礎に作曲されています。そのコラールというのは『今こそ来てください、異邦人の救い主よNun komm, der Heiden Heiland』です。これは元来、4世紀のミラノ司教だったアンブロシウスに由来するとされる、古いアンブロシウス聖歌の一つでした。「Veni Redemptor Gentium~」と歌われるこのラテン語聖歌を、ルターがドイツ語訳して受け継ぎ、それが広く知られるようになり、クリスマスを待ちわびる待降節の時期に歌われてきました。それをバッハがこの時節に演奏されるためのカンタータで取り上げたわけです。アンブロシウス聖歌は今の時代に復元演奏されています*2。(それが本来の昔の響きに近いとすればですが)グレゴリオ聖歌にも似て素朴な単旋律の聖歌です。これがバッハの手にかかると、後述するように、いわば臨場感たっぷりの生き生きした多声的なサウンドになるわけです。 この旋律が、さらにずっと時代は下って20世紀半ば(1948年)に作られたバレエ映画『赤い靴The Red Shoes』の中で引用され使われました。ですからこれは、アンブロシウス聖歌が、ルターを介してバッハに引用され、また映画で使われたということで、聖歌→ルター→バッハ、また聖歌→ルター→映画と、それぞれに「孫引き的な引用」が行なわれたことになります(また映画がバッハを介していた可能性もあります)。宗教曲でも特に聖歌や賛美歌のように多くの人々に広く知られている曲になると、子、孫、曾孫…と、様々に引用され活用されるようになることは容易に想像できるところですね。 広く知られているからこそ引用する意味があるとも言えます。多くの人に「あ、聞いたことがある」と認識してもらえますから。それだけでなく、広く知られていれば、引用元の旋律や歌詞の意味内容について深く知っている人も多くなります。特に引用元が宗教曲なら、引用先の曲を体験する人が、単に聞いたことがある程度でなく元の曲を宗教的に深く体験している場合も多い。そうなると引用先の作品を作るにあたっては、その深く体験された意味内容を前提として創作することができるわけで、その結果、引用という行為のおかげで、作品に奥行き、深みが増す可能性が生まれてくるからです。 さて、そんな引用元、引用先の作品を比較すると、同じコラールの旋律を基礎にしながら、用いられる状況に応じてそれらの表情や印象が変わっていき、興味深いものがあります。 「コラール」の変容 ――信仰の場から映画での可能性へ  前回は他の作品のテーマを引用した例についてお話ししましたが、今回は特に宗教的な作品からの引用の例について述べてみましょう。 一つの音楽作品と言っても、他の作品(や思想)から隔絶されているとは限らず、他の作品からの要素、つまり旋律などが含まれていて、それらの複合や集積の総体とさえいえる場合があることが、これまでの例などからわかってきました。そしてその旋律などが、新たな場所を得て新しい魅力的な意味を獲得したりすることも。 さてその場合、他の作品からの要素を、わざわざ自作に持ち込むわけですから、それをかなり意識的に選び出すことも多いでしょう。場合によっては、引用した旋律などが、書こうとしている作品の強力な拠り所、あるいは逆に対決や批判の対象として選ばれていることもあります。そしてその旋律は、広く知られている宗教音楽から引用されている場合がよくあります。  宗教曲からの引用として最も有名なものと言えば、ベルリオーズ(1803~1869)の『幻想交響曲』作品14でのグレゴリオ聖歌からの引用でしょうか。『幻想交響曲』は作曲者自身の恋愛体験に基づいて書かれました。イギリスからパリにやってきた劇団の女優に恋をするという、かなり苦しい体験でした(最終的には結ばれるのですが)。曲は5楽章から成り、各楽章に標題が付けられています。ストーリーとしては、主人公が恋に落ち、やがて悪夢を見る。その中で彼は彼女を殺し、断頭台で処刑され、自分の葬儀が魔女たちの狂宴の中で行なわれる、というもの。「固定楽想」と呼ばれる、恋人を表わす旋律が、変形されつつ全曲中の随所に現れるのが特徴です。 さてこの曲の第5楽章は「魔女の饗宴の夜の夢」と題され、悪夢の中で主人公の葬儀が行なわれています。ただし饗宴といっても、前回も触れたプラトンの『饗宴』での、酒宴もそっちのけで美と愛に向かった格調高い議論などでは全くなく、その正反対の不気味でグロテスクな宴です。この楽章は「ワルプルギスの夜の夢」としても知られています。 ところでこの魔女たちの醜悪な集会の模様が、ゲーテの戯曲『ファウスト』第1部でも、同じ「ワルプルギスの夜の夢」という名の部分で描かれています。悪魔のメフィストフェレスが、戯曲の主人公たるファウストを堕落させるため、彼を誘惑して、ドイツ中央部にあるブロッケン山で行なわれている魔女たちの不気味な夜会に連れて行きます。この夜会は現在も「ワルプルギスの夜」という名で実際に行事として行なわれています。さて、ゲーテ『ファウスト』中の、この夜会で行われていた素人芝居のセリフの一箇所を記せばこんな具合。 [若い魔女] 髪粉つけて着物をきるのは、 白髪の婆さんだけの話よ、 わたしゃ裸の牡山羊に乗って、 このいいからだを見せるのさ。 [老貴婦人] 私たちはたしなみがいいから、 あんた方と啀み合いはせぬが、 あんた方、その若くてすんなりとした からだのまま腐ってしまえばいい。 [楽長] 蠅のくちはし、蚊の鼻の先、 裸の女にたかっちゃだめだよ。 葉末の蛙に草葉のこおろぎ、 歌の拍子をはずすなよ。 [風信旗(一方に向いて)] 願ってもない粒ぞろいですな。 ほんとに立派な花嫁ばかりだ。 また青年諸君もそれぞれに、 末頼もしい方ですな。 [風信旗(他方に向いて)] もしこれで大地が口をあけて、 あいつらをみな呑んでしまわなけりゃ、 この私がさっさと駆けだして、 まっすぐ地獄へ飛び込みまさあ。*1 《幻想交響曲》 ――神聖から峻厳へ、そして醜悪の中へ
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引用の諸相2 ~各種宗教曲からの引用〜
 まさにその「地獄」へ落ちるかどうかを判定する、最後の審判の恐ろしさを歌うのが、グレゴリオ聖歌の『ディエス・イレ(怒りの日)』です。聖歌は「全てが灰燼に帰すべきその日こそ怒りの日である。…」と歌い始められ、「審判者が厳しく全てを裁くために来るとき、何と恐ろしいことだろうか」などと続けられていきます。これをベルリオーズが『幻想交響曲』で引用しました(譜例1)。  ではまずバッハの作品をみてみましょう。バッハは教会カンタータ第61番でも62番でも、冒頭の曲でこのコラールを基礎に据えています。ともに声楽と器楽のアンサンブルの形態で書かれていますが、まずこの両者でも性格はだいぶ異なります。まず、バッハのヴァイマール時代に書かれた第61番カンタータの冒頭曲は「序曲Ouverture」と題され、フランス風序曲の形式で書かれています。フランス風序曲は、力強い付点リズムが特徴のゆったりした進行の部分に始まります。これにポリフォニックで活発な部分が賑やかに続いて音楽が盛り上がる形式です(最後にゆったりした部分がもう一度戻ることもあります)。中期バロック時代の代表的な音楽家J.B.リュリが豪華なオペラの序曲で用いました。特に前半のゆったりした部分は、ヴェルサイユ宮殿などでのルイ王朝の王侯たちの堂々たる入場を彷彿とさせます。バッハはこのゆったりした部分に前述のコラールを組み込みました。器楽声部が付点リズムを歯切れよく奏する中、声楽セクションがパート毎にコラール旋律を朗々と歌い継いでいきます(譜例2)。あたかも王たちの代わりに、その到来が待ち望まれるイエス・キリストが入場する様子を表すかのように。 バッハ ――情景を描くコラール
 さてこのように、同じコラールを同じ作曲家が同様な機会のために作曲した教会カンタータに引用した場合でも、曲によってだいぶ扱われ方が異なっています。となると、これが20世紀の映画音楽に引用されたともなれば、さらに様変わりすることは想像に難くありません。 映画『赤い靴』はアンデルセンの名作童話に題材をとり、これを敷衍発展させてバレエ界の悲劇を描いた名画です。音楽担当はブライアン・イースデル。バレエ愛好者の間では広く知られていますね。また、童話がもとということで、当時、台頭しつつあったディズニー映画ともよく比較されますが、それらとは内容的に一線を画するイギリス映画です。 その中で、赤い靴を履いたバレリーナのヴィキイが約20分も踊り続ける印象的なシーンの最後に、このコラールが現れます。踊りをやめることができないヴィキイが救いを求めて教会の入り口にやってくると、中から出てきた信徒たちのバックに厳かに流れるのです。信仰を疎かにし踊り回った彼女を、受け入れ難いと言っているかのように。ここで流れるこのコラールからは決して、救いがある、明るい優しい印象は受けません。むしろ金管の鋭い響きや、神父と信徒たちの深刻そうな動作からは、厳しい審判が下ったかのようです。元々、アンデルセンの原作童話自体が「不信心はいけない」という教訓的な性格をもっていたこともあり、コラールはむしろ信仰の世界の厳しさを象徴しているのでしょう。映画中でも作曲担当のクラスターが、この曲の構想段階で、感傷的な賛美歌の代わりにコラールを用いると説明するシーンもあり、プロデューサーのレルモントフが直ちにこれにゴーサインを出していたりします。コラールはここでは信仰の厳しさの象徴としての意味をもっているようです。 こうしてみてきたように、引用という行為により旋律の性格や印象は千変万化すると言っても過言ではありません。引用とは、ある旋律を機械的に別の曲の中に、右から左に移し置くだけの行為ではない場合が多い。そして『赤い靴』でみたように、宗教曲からの引用と言っても必ずしも「優しく愛に満ちた!?」ものであるとは限りません。そのもっと強烈な例が、先述した『幻想交響曲』第5楽章とも言えるでしょう。聖歌の厳しい表情が極度に強調され、しかもグロテスクな第5楽章の他の要素と対比され、組み合わされています。また『赤い靴』『幻想交響曲』ともに、当該箇所で鐘(弔鐘)が鳴るのも共通していて興味深いところです。 …今回も、引用の例を指摘するだけでなく、その意味を確認するため曲ごとにやや詳しい説明をしてみました。それでも、当該楽曲を全体として見たときの引用の意義等について考えるとなると、なお説明不足です。が、だいぶ長くなったので、それらについては読者の皆さんで調べてみられることをお薦めし、ひとまず筆を置きます。 映画 ――信仰の厳しさの象徴へ
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譜例1

神聖なはずの聖歌をこんな醜悪な場に登場させるとは、ずいぶん大胆な引用を行なったものです。上記の「地獄」から発想したのかどうかもわかりません。 もっともベルリオーズはゲーテの『ファウスト』を読んでたいそう感激し、その内容を熟知していたらしく、『ファウストの劫罰』という劇的物語なども書くほどでした。ですからこのように考えることはできないでしょうか。主人公が悪夢の中で恋人を殺して死刑を宣告される内容のこの交響曲を書くとき、悪夢の発展として狂宴の場が着想された。そこでファウストに与えられる天罰と、厳しい最後の審判を結び付け、聖歌の引用に至ったなどという推理もできないことはなさそうです。 それに加えて、この聖歌そのものが(口ずさんでみればわかりますが)非常に表情豊かであり、引用したくなるのもわかる気がします。ベルリオーズは、しかしその表情の豊かさを、管楽器(ファゴットとチューバ)の強奏により、最後の審判の厳しさへと読み替えて表現しました。 …そんなわけで、宗教曲からの引用といっても、真正面からの素直な信仰心を表わすためではない、少々毛色の違う引用というものをまず簡単に紹介してみました。

譜例2

歩いてくる弟子たちの間に、イエスの姿が垣間見えるかのようです。器楽の各セクションは細かく活発な動きでこれを装飾していきます。救い主が現れるのを浮き浮きソワソワ待つ群衆のよう…。今日でもドイツ語圏はじめヨーロッパではクリスマスのひと月ほど前にあたる待降節の頃には各市内にクリスマス市が立ち、昼間は明るく賑わい、夜はロマンティックにしみじみと、救い主の誕生を待つ季節が楽しまれますね。この音楽からは、そんな様子が目に浮かびます。  これが、ライプツィヒ時代に書かれた第62番になるとだいぶ様子が変わります。声楽セクションではソプラノ・パートが定旋律のようにコラールを長く引き伸ばして歌っていき、それを下3声が多声的な書法で支えて進みます(譜例3)。

譜例3

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