これまで,クラシック音楽中心に映画音楽までとりあげながら引用の諸相をみてきました。今回はそんな引用の極め付け的な事例を紹介しましょう。 前回みてきたグレゴリオ聖歌やバッハからの引用は,対決や批判の対象として選ばれた場合でしたが,では肯定的な拠り所として引用先で新たな命を与えられ,新たな表現の可能性が生まれるのはどのような場合でしょうか。 ここでもやはりJ.S.バッハ(1685~1750)が典型例を提供してくれます。古典派以後の音楽家たちにとって,バッハの作品は常に自らの創作のお手本となり立ち返るべき存在で,したがって貴重な引用の対象でもありました。今回も教会カンタータのジャンルからみてみます。…宗教曲はどうもという人も,バッハのカンタータといえば200曲以上が残され多様多彩で,15分から30分程度の短い曲が多く,『マタイ受難曲』や『ロ短調ミサ曲』などの大作に比べれば聴くにも演奏するにもずっと手頃!?なので,この機会に,ぜひ親しんでみてください。クラシック音楽の知識も理解もグッと広がり深まるはずです。  バッハのカンタータから引用した素材をロマン派時代に交響曲で蘇らせたのが J.ブラームス(1833~1897)でした。彼が注目したのは舞曲のシャコンヌです。バッハのシャコンヌといえば,『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番 BWV1004』の終曲が有名ですが,ここでふれたいのはこれとは違うシャコンヌ,『教会カンタータ第 150番』の終曲として書かれているシャコンヌです。 この終曲では,バス声部(譜例1)がオスティナートとして22回繰り返されており,上声部ではメロディーが変奏曲のような形で展開していきます。内容は「私の苦しみの日々を,神様は喜びへと終わらせてくださいます/マイネ ターゲ イン デム ライデ エンデト ゴット デンノホ ツア フロイデ/Meine Tage in dem Leide Endet Gott dennoch zur Freude(ドイツ語)」と始まります。このバス声部を,後にブラームスが『交響曲第4番 ホ短調 作品98』の終楽章に引用しているのです。ただしバス声部でなくフルート,オーボエなどの上声部で用いています(譜例2)。
「シャコンヌ」の変容
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引用の諸相3 ~バッハ曲の引用から 新たな表現の可能性へ~
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 まずバッハから。譜例1からわかるように,バス声部は音階を順次進行で上行してカデンツに至る。この上行は,バロック時代に生きていた音楽のフィグールのうち,「アナバシス」とみなせるでしょう。{フィグールとは音楽の約束事で、様々なフィグールを知っていると音楽理解にとても役立つので次回以降ももう少し紹介するつもりです*。} 「上昇」や「復活」などといった歌詞が歌われる際にアナバシスが用いられたものでした。内容は,先述した始まり方からもわかるように,「神の加護によって勝利を確信して『喜び』へと進みます」という大意で,バス声部もその前向きの内容を反映しているかのような動きです。 バッハはこのテーマを5小節で構成しています。本当は第4小節の動き(ミ➚♯ファ➘♯ファ)を二つの小節に分けて計6小節の偶数小節構造とするほうが,安定した印象をもたれるものになったでしょう(譜例3)。
バッハ――様々な構成的・声楽曲的工夫
 そうせずに終結部分を圧縮(2分音符三つに)し,最後は♯ファのオクターヴの跳躍下行で,テーマから私たちが素朴に感じ取れるエネルギーの流れとでもいうべきものが頂点に至って解決するよう処理し,テーマ自体の終結感と緊張感を高める。さらに最後の小節では他のパートも加わりつつ,前のテーマに重なるように次のテーマ変奏が始まっています。以下同様で,テーマが次々に畳みかけられる効果! このカンタータはバッハ最初期(ミュールハウゼン<ドイツ中央部の都市>で活動していた時代)の作品と考えられていますが,そんな曲の流れにはバッハの若々しいエネルギーを感じます。 またこの終曲全体を見渡すとわかるのですが,歌詞の各センテンスを均等割して単純に各変奏に割り振るわけではなく,歌詞の内容を内省したり,次の場面への移行を促したりするために器楽のみの変奏を置いたり,ときに四声体の合唱で,ときに単一のパートのみで歌われたりと,変化をもたせて進行します。(参考図①)  あるいは「喜び/Freude」という言葉では長調に転じて,一つの変奏全体をFreudeという単語の各音節を引き延ばした長いメリスマにして,喜びを大きく明るく描写的に表現します(譜例4a)。描写的な手法は,ほかにも「茨の道/ドルネンヴェーケン/Dornenwegen」を(譜を見ても,聴いても)いかにもそれらしく半音階を含む下行音型で表すとか(譜例4b),「戦う/シュトライテン/streiten」の様子を,音符を細分化して激しい動きを!?描くとか(譜例4c)など,様々な形で用いられています。  ですから私たちもこの曲をバッハ初期の習作などと思って見過ごさず,具体的な聴きどころを手掛かりに,歌詞の世界をなかなかリアルに描写した意欲作とみて内容を楽しみたいものです。

譜例3

譜例1

譜例2

譜例4a

譜例4b

譜例4c

 このシャコンヌを,晩年のブラームスが,1885年,『交響曲第4番 ホ短調 作品98』の第4楽章に採用しました。このシンフォニーは, 「思いっきりブラームス的に渋く枯れた印象に始まる第1楽章」 「苔でも生えていそうなほどに古風な教会旋法的響きを堪能できる第2楽章」 「皮肉屋ブラームスの高笑いを聞くかの第3楽章」 とくるので,さてこんなに強烈な性格の各楽章だと,フィナーレはどうなる?と思っていると,ここまで来た勢いと熱を無理やり押さえ込むかのように始まるのが第4楽章。結果的にこれがブラームスの生涯最後の交響曲の最終楽章となり,ベートーヴェン『第九』やモーツァルト『ジュピター交響曲』などのそれと比肩される名フィナーレとなりました。ここではシャコンヌのテーマが楽章全体を貫く基礎となっているのですから,引用が最も本質的で重要な意味をもつ例といえますね。引用という手法を最大限に活用し,バッハの,そしてバロック時代の特徴的な時代様式を19世紀ロマン派時代に蘇らそうとするかのようです。 ただしブラームスは単純にバッハを模しているわけではありません。まずテーマを低声部ではなく上声部に置いて聴き取りやすくし,聴き手にその旋律線を鮮明に記憶させます(譜例2)。そしてバッハのようにテーマを5小節(譜例1)のあえて不安定な状態から展開をうながすようなことはせず,8小節の偶数構造とし,また基本的に最後の小節は次の変奏の開始小節と重なることもなく,結果,テーマや各変奏はそれ自体で安定し完結した形となっています。 またCD等で聴くとこのテーマ,何やらハーモニー進行が充実して聞こえますね。前半4小節と後半4小節でテーマに伴う和声の性格が異なる。少し専門的になりますが,前半では不安定な響きの和音を多用して和声の機能性を薄め,各コードの独立性を高めつつも,外声同士を大きく反行させて和声のじっくりとした拡がりを響きとして感得させます(譜例5)。
ブラームス シンフォニーの到達点

譜例5

 テーマの前半は基本的に順次進行で音階を上行(ミ➚♯ファ➚ソ➚ラ)します。対して後半は足踏みするかのように半音階(ラ➚♯ラ➚シ)となり,続いて強力な機能性を示すオクターヴの跳躍下行 (シ➘シ) でテーマ内での解決感を強め,最後は長三和音で終わらせる(ピカルディ終止)意外性も示しています。和声的な豊かさは「さすがブラームス!」と思わせられますね。 補足:この楽章の形式は「シャコンヌ」ないし「パッサカリア」と呼ばれている。この二つは初源は異なるが,ほぼ同様の構造である。  このような処理の結果,バッハとブラームスではどのような違いが生じたか。バッハでは前述したように,テーマが次々に畳みかけるような連続性を示し,歌詞のセンテンスは複数のテーマに分割されつつも,歌詞の内容の脈絡でそれらは緊密に結び付けられています。つまりシャコンヌの基本構造は,言葉の内容が連続的に語られていきやすいよう処理されています。その点では,バッハの作品はあくまで声楽曲なのです。 一方,ブラームスもバッハの曲の歌詞内容を知っていて,勝利を確信(ズィークハフト/sieghaft)し,戦う(streiten)などという歌詞の内容を意識し,楽章の 発想標語のような表情を音楽に,そして演奏に求めたことでしょう。しかしブラームスが書いていたのは,純粋器楽の最も重要なジャンルである交響曲の最終楽章です。おそらく純粋器楽としての充実と説得力を第一とした結果,各変奏の独立性はしっかりと確保し,変奏ごとに大編成管弦楽の醍醐味と色彩豊かな音色を引き出すことになったのでしょう。 とはいえ,ブラームスにおいても変奏同士は無関係ではなく,緊密な関係性をもって全体が構成されています。解説文などによっては,これを「ソナタ形式」と説明している場合さえあります。ただ,第2主題をどこからとみなすかなど解釈に違いが見られるし,筆者としては無理に形式にとらわれた説明をする必要はないように思います。すでにシャコンヌという堅固な基礎は明らかだし,ありのままの形として作品を理解したいところです。 このように声楽中心の曲から器楽曲へと,異なるジャンルに引用が行なわれる場合,同じテーマが別のジャンルで新たな可能性へと発展するように絶妙に変形されて用いられることがあります。
18世紀のカンタータ<バッハの声楽曲> から 19世紀の交響曲<ブラームスの器楽曲> へ
 バッハのコラールの19世紀器楽での引用例についてかなり詳しく説明しましたが,20世紀にも同様に名作での例があるので簡単に触れておきます。 新ウィーン楽派であるA.ベルク(1885~1935)の『ヴァイオリン協奏曲』です。この曲は,知人の娘で,17歳という若さで夭逝したマノン・グロピウスの死を悼んでベルクが書いたものですが,その第2楽章に,バッハ作曲『教会カンタータ 第60番 BWV60』の終曲のコラール「もう十分です,主よ,御意に沿うのでしたら私を解放してください/エス イスト ゲヌーク ヘル ヴェン エス ディーア ゲフェルト ゾー シュパンネ ミヒ ドホ アオス/Es ist genug; Herr, wenn es Dir gefällt, so spanne mich doch aus(ドイツ語)」の旋律が現れます(譜例6)。
18世紀のカンタータ<バッハ> から 20世紀の協奏曲<ベルク> へ

譜例6

 この協奏曲は12音技法によっていますが,繊細でロマンティックな性格で,コラールも遥かな天国へ召された娘を想うかのように瞑想的に奏されます。20世紀以後の音楽,あるいはいわゆる現代音楽は苦手という人にも,ある意味わかりやすく不思議な魅力をもった曲なので,この際,注目の価値ありです。コラールを手がかりに聴き込んでいってみましょう。…カンタータ終曲のこのコラールについて,元はバッハ以前のR.アーレという音楽家の作になるとされますが,ベルクはおそらくバッハ作のカンタータを通じて知り,そこから引用を行なったのでしょう。  ベルクの作品の穏やかな楽想のこの箇所を聴くだけだと,天に召される静かな気分のみの味わいで終わるかもしれません。でもバッハの『カンタータ 第60番』の全体を,歌詞内容を含め知っていると,「天の家/ヒンメルスハウス/Himmelshaus」へ行くまでのプロセスで何が起こるのか,言葉を通じて,より具体的に深く感じ取れます。カンタータでは死への恐怖(フルヒト/Furcht)と,信仰による希望(ホフヌング/Hoffnung)との葛藤が対話形式で克明に描かれていきます。(参考図②)
引用の理解から音楽理解の深まりへ
 ベルクの作品のコラール登場までの曲運び,つまり独奏ヴァイオリンの開放弦(ソ・レ・ラ・ミ)が用いられるある種空虚な響きが印象深い導入部から,ウィーン風な楽想(スコア中に“ウィーン風に”と記されていて,そこはウィンナ・ワルツを想起させるかの楽節になっている)などを経て,第2楽章,深刻で緊迫感あふれる不協和サウンドへ,…死に行く娘の不安,生への回想,死との闘争など,バッハがカンタータ全体で表現していた世界をよりどころに,一層の深まりをもって聞こえてくるでしょう。 ベルクはこの協奏曲を書き上げたわずか4ヶ月後の1935年12月24日早朝,50歳でこの世を去りました。マノン・グロピウスへの追悼曲が,いみじくも作曲家自身への追悼曲ともなりました。 なお,このヴァイオリン協奏曲では,様々な「数による象徴※」なども行われているといわれますが,ここまででだいぶ本文が長くなってしまいましたので筆を置きたいと思います。 次回は「引用」からそんな「象徴」の問題へとお話を進めます。 ※余談ですが,ベルクは数への独特のこだわりがあり,“23”を自己の運命数として意識していました。
注 *フィグールについては《ニューグローヴ世界音楽大事典》(講談社,1995)の「修辞学と音楽」の項目に詳しい。

参考図①

参考図②

※文中の黄色字にカーソルをあてると用語の解説が表示されます。
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