新しい提案はいつも教育出版から 学ぶ子どもも先生も 「わくわく楽しく生活科をしたくなる」教科書
1.編集にあたって
おもしろくなければ教科書じゃない!
おもしろいだけでも教科書じゃない!
〈編集にあたって〉 子どもは自らが「?」(はてな)や「!」(びっくり)が生じて初めて,心も体も動き出します。 目指したのは,"真のおもしろさ"を秘めた教科書。 「何を学ぶか」「どのように学ぶか」「何ができるようになるか」... 新しい視点でとらえ直すことで見えてきた新しい教科書のカタチ。 教育出版の生活科教科書は, "新しい教育課程が目指す生活科" を実現する教科書です。
2.脳から見た生活科 編集座談会
―もしも,アタマの中が見える虫眼鏡があったら―
アタマとカラダのつながりから,生活科の学びを紐解きました。
(国士舘大学教授)
(東京大学教授)
(東京都江東区立明治小学校統括校長)
子どもにとって「遊び」は「真剣な学習」です
――生活科には,幼児教育で培った遊びを通した総合的な学びを,学習へとつなげる役割があります。子どもにとって,「遊び」にはどんな意味があるのでしょうか。

大人の考えている「遊び」の捉え方と,子どもにとっての「遊び」の捉えは異なっています。大人は「遊んでいる」と,捉えているかもしれませんが,積み木1 つだって,ストレスが溜まるくらい真剣に積んでいます。そういうことを通じて,この世界のあり方を脳の中に内面化していっているわけです。遊園地に行くにしても,「遊ぶ」じゃなくて,遊園地で真剣に学習しているという方が近いですね。
脳は,生まれたときから自発活動をしていて,外側とインタラクションすることによって,脳の中の活動に意味を与えています。それが,学習であり成長です。子どもにとっての「遊び」はその活動の一つといえます。小学校1,2年生の頃は,まだまだそれが高い時期です。
「人間らしさ」を生かした学びが大切です
――新教育課程の生活科では,発達段階に応じた思考力を育てることが課題です。脳と学習の関係を教えてください。

脳の学習プロセスの中には,「速い学習」と「遅い学習」といえるものが二重に動いています。結果をすぐに求めたがる場合は「速い学習」が重視されます。いわゆる「わかった!」です。学校教育は,そちらを重視する傾向があるのではないでしょうか。
僕は,成長とは「遅い学習」だと思うのです。「わかった!」ということを重視しすぎると,「遅い学習」がうまく進まなくなってしまうんです。「遅い学習」は,脳の大脳皮質ではなくて,小脳や線条体を何度も訓練することによって身につくもので,そこには,「わかった!」感がありません。
例えば,自転車に乗ることがそうです。「乗れた!」という瞬間は,確かにありますが,「わかった!」という感じじゃない。途中時点では,「乗れた!」という感じがなく,徐々に体が上手く動くようになっていく。実際に乗れていないわけです。そのモヤモヤしている感じ,「成長しているのかしていないのか,自分でもモニターできていないんだけど...」というあの段階を,すごく大切にしければいけないと思っています。

生活科を始めた頃,子どもが活動に没頭する時間をたくさん確保するということを大切にしていました。「遅い学習」が大切であるということにつながりますね。没頭しているのを待つ,しっかり見届けてあげるというように,教える側が我慢して見ていられるかというのがすごく大きいんじゃないかと思いました。

生活科というのは,本来ある姿に戻す教科という感じが,僕はする。だからこそ,先生のあり方が大切ですね。どの科目よりも難しいと思います。先生にも忍耐力が求められる。

「わかった!」の快感,これは確かにあると思うんですね。前にやったことと,今,目の前で起こっていることがつながる瞬間,そういうときに子どもは「わかった」って,ものすごくいい顔をするし,学んでいるよさみたいのを我々も感じます。

わかりやすいんですよね,先生にとっても。

それを求めようと,学校もしています。新教育課程では,「カリキュラム・マネジメント」で,学んでいることがつながっていくように,教科と教科を関連づけてやっていこうとしています。
実は,それはとても難しくて,教える先生が全部頭に入っていないとつなげられないんです。でも,子どもは,結局,そういうことを頭の中でやっているんだと思うんですね。「算数の時にやったあれだな。」って。脳の神経がつながるような瞬間が「わかった!」なんですよね。

「速い学習」を重視する始まりは,乳児が初めてつかまり立ちしたり歩いたりしたときに褒めてくれる,あれではないでしょうか。別に褒められなくても,歩くんですよ,子どもって。野生の動物の子どもとか,歩いても別にほめられません。ほめなくても立派な大人になるわけで。わたしたちは,「わぁエライねぇ!」というのを過剰にやって,それを重視することに偏重しすぎています。
「速い学習」は,人間が言葉をもったことも大きいですね。言葉をもったことは,学習を効率化かつ高速化するのですが,一方では,わたしたちの心のカタチを縛っているともいえます。言葉を上手に使えることで,脳が進化の過程で養ってきた本質的な面を見失いがちになっているのではないでしょうか。そもそも「人間らしい」ところは「動物らしい」ところの上に乗っています。「遅い学習」がない限り,「人間らしさ」は活かせません。どちらも大切です。

自分の思考過程や,やってきた過程をモニタリングする力というのは,発達段階では,どれくらいでしょうか。

例えば,「私,問題解けてる!」みたいのがわかるのは,5,6歳くらいからだと思います。だから,小学校に入る頃には,もう十分できています。

生活科では,「自分自身への気付き」を大切にしているんですけど,とっても理に適っているわけですね。

そうですね。いちばん大切なところですよね。そのファーストステップはもうできている時期です。
感覚に実感を伴わせることが大切です
――体験学習が中心の生活科です。体験と脳にはどんな関係があるのでしょうか。

そもそも学校の勉強は何のためにやるのでしょうか。小学校3年生くらいまでの知識があればとりあえず生活できます。日常生活で,分数の割り算をしたことありますか。

ないですね。

自分は科学者ですが,連立方程式や鶴亀算なんて,研究の中で解いたことはないですよ。つまり,理系の専門家ですら使ったことがないようなものを学校で教える。もちろん,システマティックに体系的に何かを学ぶという意味や,学習とは何かというものを学習するというメタ学習という側面もあるとは思います。
考えてみると,学校というあり方も不自然です。人それぞれなのに,みんな画一的に学習する。習っている内容も,そんなの知らなくても生活できる...というようなことなのです。つまり,生きものとしては不自然な状況に置かれた時に,その理不尽な状況にうまく適応できる,提示された枠の中に自分の形を変えてフィットできるかどうかというのを極めるために学校があるように見えます。
でも,なんだか悶々とするじゃないですか。そんなふうでいいのかって...。そんな中,唯一の「善なる心」みたいなのが生活科だと,僕は感じています。僕らは,感覚の世界の中でしか生きていないので,感覚に実感を伴わせることが,すごく大切です。それを養うのが生活科だと思います。
一つ例をあげると,黄色という色は,実は,この世に存在していないんです。目は,RGBといって,赤,青,緑の三つのセンサーしか持っていません。どうして僕たちは黄色が見えるのかというと,脳の中で色のパレットが混ざっているから見えるんです。
視野の真ん中に仕切りを置いておいて右目に赤,左目に緑を見せる実験をすると黄色が見えるわけです。目の前には赤と緑しかないのに。しかも,なぜ黄色なのかというのも,すごく不思議なことです。存在しないものを感じたら世間では幽霊とか幻覚って言いますね。見えているのは,いわゆる黄色という幻覚なんです。ほかの色もそうです。
実感を伴う学びがあるのは生活科だけです

なぜこの話が生活科につながるかというと,他教科では,目や音など特定の感覚が中心ですよね。僕らはもともと全部幻覚を目や耳で見たり聞いたりしているんですね。だから,諸感覚をまんべんなくきちんと使っていく必要があります。
そうすることによって,幻覚が幻覚じゃなくて,実感になるんです。脳が感じている世界を疑わないようにするためには,実感を伴う必要があります。そういうことを学ぶことができるのは生活科だけだと思います。

学校教育が始まって150年,実は,基本的なカタチは,何も変わっていません。先生がいて,子どもが先生のほうを向いて画一的に教えられるということが,今この時代になって合わなくなってきているんじゃないかと思います。
本来は,生活科は教育改革の柱だったはずなんですけどね。それが少し形骸化してしまって,また同じ150年続いている学校教育の中の生活科になりつつあるのが残念です。
だから,この新しい教科書で,そういうところを変えていかないと,と思うんです。

そうですね!