教育研究所
№1035「手作りの教具たち1」
iphone(アイホーン)がポケットから滑り落ちて,はねて転がったため,ご丁寧に角3カ所が,ぶつかったらしい。ディスプレイの角かどのガラスにひびが入ってしまった。幸い,液晶等に影響がなさそうなので,修理にも出さず使っている。
これを見て,タブレット活用とその普及に不安をもった。機械の強度の問題,容量限界の問題,耐用年数の問題,バージョンアップごとの再購入の問題等々,教育予算が,そんなところで膨らんでいくことに本来の学びや指導へのしわ寄せはないものだろうか。デジタル化への行程には越えねばならないさまざまな課題がありそうだ。
安倍内閣が,ようやく,パソコン(?タブレットか)の児童生徒一人1台を目指すらしいという方針を打ち出したようだ。プログラミング教育必須化に伴う教育施策の一環だろう。だが,プログラミング能力は,指導する教員も含めて理解や習得に時間もかかり,個人差もあろうことは想像に難くない。そちらは,系統的に着々と進めながら,手元にいつもICT機器があることを生かして,親しみながら学習道具,つまり文房具としての活用の幅を広げていくことを心がけてほしいと思う。
例えば,学びを深めるメタ認知の具体化として,授業における「振り返り」がようやく定着してきつつあるが,授業の終わりの時間切れから,十分な振り返りができないことも少なくない。特に,ノートやワークシートに自由記述で書かせると,文章化やその記述に時間を要する場合が多い。そんなとき,ある教室で「先生,大丈夫だよ。」と子どもがタブレットを操作した。「入力も当然時間を要するのに」といぶかしむ教師の前で,子どもはメモ機能を立ち上げて,音声入力を始めた。数行の振り返り文が表示されると,それをもとに,ノートに文調しながら転記し始めたという。
安易に書かせっぱなしではなく「振り返り」の視点や内容に指導も必要だが,子どもにとって,独り言の話し言葉が文字言語化して,「見える化」できることは,今後の文章記述や推敲まで含めた可能性を秘めている。それも,ICT機器の個人文房具としての環境が整うことが前提なのだが。
すでにデジタルネイティヴといわれた世代が父母となり,その子どもたちはスマホネイティヴである。人にとって,思考も行動もアナログであり,それを大切にせねばならないが,その表出や記録の方法は進化していくのだと思わされるエピソードだった。
思えば,私が教員になった頃は印刷物ですら,やすりにろう原紙を置き鉄筆で文字を切って,ローラーで手刷りした頃で,青焼きやカーボン紙に頼って複写をした最後の世代である。ほぼ死語となったこれらの教具文化の頃から,しかしまだ40年ぐらいしかたっていないのだから,高度文化化,高度科学化の波は18世紀の産業革命の比ではない。
だが,教室の基本が人対人の環境を超えるべきでない状況を保っている限り,当時,授業で工夫してきた日常的な教具開発を振り返れば,今の授業にもヒントを見つけられそうな気がする。今後,私的な開発経験や先輩同僚の工夫などを拾っていくつもりだが,もし,読者の中に,こんなものを作った,という経験がおありならば,紹介してほしい。
以上,前書きである。(H.I.)
(2019年11月25日)