教育研究所
№1036「反省だけなら猿でもできる!?」
かつて,「反省だけなら猿でもできる」というCMがあった。猿が頭を下げるポーズが反省しているように見えるということだったように記憶している。調教師が「反省!」と言ったら反省のポーズをとらせることを教え,猿はそれに従っているだけのことだが,当時,とてもユーモラスに感じたので印象に残っている。このCMのことを最近,思い出すことが多くなった。
大学で勤務しているが,事務局から「学生に反省文を書かせましたので指導をお願いします」と依頼されることがある。
学生が,反省文を携えて研究室に神妙な顔をしてやってくる。「これ書いてきました。この度は,申し訳ありませんでした。」と頭を下げて反省文を私に差し出す。一生懸命に書いてきた学生には申し訳ないが私は反省文には目を通さない。「何が申し訳なかったのかな?」と聞くと,「エッ!!」という顔をする。多くの学生はすぐに言葉が返ってこない。
私は中学校の教員時代も校長時代も,生徒にも教職員(!?)にも反省文のようなものを書かせたことは一度もない。意味がないと思うからだ。全く反省の気持ちがなくても,文才があれば立派な反省文を書くことができる。また,保護者や兄姉が代筆したり,添削したりすることも可能である。まさに「反省文だけなら誰でも書ける」からである。
また,「とにかく頭を下げれば許してもらえる」あるいは「頭を下げなければ許してもらえない」という面もあるので,納得していなくても,悪いことをしたと思っていなくても頭を下げる。「頭を下げるだけならいつでもできる」のである。
謝罪の言葉を口にさせたり,反省文を書かせたりすることが指導の中心になっていたり,それで指導は終わったと思ってしまったりすることがないだろうか。これでは,子どもたちは反省どころか,同じ誤った言動を繰り返して当然である。なぜなら,どうしてそのようなことをしてしまったのか,何がいけなかったのか,どうすればよかったのか,今後はどうしていくことが求められるのかというような振り返りがないからである。
子ども同士のトラブルがあった際,被害に遭った子どもや保護者からすれば,まずは加害者側の子どもや保護者から謝罪の言葉がほしいところである。そして,謝罪の言葉があると安心し,納得する気持ちもわからないではない。しかし,大切なのは加害者側が自分自身の言動を振り返ることであり,自らの言動を変容させることである。その上での「反省」ではないだろうか。
時間をかけてじっくりと子どもと向き合い,これまで以上に心に迫る指導・支援が求められていると感じている。その時は時間がかかるかもしれないが,長い目で見れば,このような指導・支援が子どもたちへの指導の時間削減につながるのではないだろうか。
(S.E)
(2019年12月9日)