教育研究所
No.368 「職人の人生訓」(2014年03月24日)
下町の担任をしていた頃,クラスに大工の保護者がいた。
いなせな職人さんで,夜,ある飲み屋で一緒になったことがある。
ちょうど,国語の教材文に「大工」の父親が登場する物語の授業をしている時で,その職名が,人権上問題かどうかという話題が職員室で出ていたときだった。
「お百姓さん」のように「さん」をつけるべきじゃないかという話題だった。
ちょうどいい機会だったので,どう思うか聞くと,「物語で,仕事を表すんだからいいんでないの」と笑われた。
「でもよ,『おい,大工』って呼びつけられんのはちょっとなあ。」
うんうん,そりゃそうだよな,と納得した。
話は変わるが,彼からいい話を聞いたので,次の日,子どもたちに話して聞かせたエピソードがある。それは,家やビルなどの礎石のことだ。
どんな建物も,小さな小屋でも巨大なダムでも,しっかりしたいしずえを築き,柱の支えにする。建造物が乗ってしまうと,いしずえはもう目にふれない。
見えない力になるのだ。
「で,先生よう,もし床が透明で家の礎が見えたなら,土台の周りはゴミひとつないぞ。
長い間に積もったほこりはあっても,木くずとかかんなくずは一つも残ってないんだ。」
それはもちろん,ひとつの作業の後,ていねいに片付け,きちんと掃除をするからだ。
一作業ごとに,そして毎日,仕事の終わりにきれいに掃除し,次の仕事を段取りし,道具や材料を見通して明日に備えるんだというのです。
「そうじのへたな大工に仕事をたのむな,ってね。」
きのうのゴミが散らかった仕事場でいい仕事はできない。
釘やねじが紛れ込んでいるかも知れず,かなづちがかんなくずに埋もれているかも知れない。
なにより,火花が木くずに引火したらどうなる?
なるほどなあと思った。
それが,最近,今はなくなった小さな建設会社の社是を気に入って,彼が好んで自分の人生訓にしていたらしいことがわかった。
そうして,含蓄のある言葉は広がっていくのだろう。
学級経営の一助にこの話を使わせてもらったが,自分の人生ではあまり守れなかった。
少々残念である。
しかし,いい話だったので,校長として卒業生に贈る言葉に使ったりもした。
(H・I)