教育研究所
No.347「出会うこと」ということ(2013年04月09日)
久しぶりに写真の整理をしていたら,その中に,封筒に入ったままの古い写真が見つかった。
封筒の裏には,父の名前があった。開けてみると,平成元年の実母の法事の時に撮ったものだった。
若くして世を去った母であったが,法事には多くの親族が集まり,笑顔で円卓を囲んでいる。
郷里長崎の名物の卓袱(しっぽく)料理を囲んでいる。
長崎では人が集まる時,よく卓袱料理が供される。
この料理の由来は,鎖国体制の中で日本の唯一の貿易港であったという歴史から,生まれた料理であるという。
日本料理,中華料理,西洋料理の融合した懐かしい料理を囲みながら,和気あいあい思い出話に話が弾んだ会だったことを思い出した。
この写真の中の親族には,すでに亡くなった方も多くいた。
私には,このときの出会いが最初で最後だった身内もいた。
あのときの私は,久しぶりにふるさとに帰り,懐かしさと嬉しさで,自分を中心にした近況を話し,相手方の気持ちや状況などに深く気にかけずにいたのではなかったのではと心が沈んでしまった。
身内とはいえ,人に出会うことは,その人の人生との出会いであり,もう一人分の人生を知ることにつながる。
もっと関心をもち相手の話に心を寄せればよかったと後悔をした。
私たちは,人との出会いが多ければ多いほど人生の糧の幅が広がる。
でも,その相手の生き方や思いを受け入れる余裕や準備がなければ,そのチャンスを逃すことになる。
若い頃だけではなく,齢を経ても心の準備が整わず,チャンスを失っていることがあるように思う。
また,人との出会いとは,人と人との関係や広がりが始まることでもある。
また,会ったり,便りを交換したりしながら,その広がりとつながりが深まっていく。
出会いのきっかけがいいと,なおさらのことである。
しかし,多くの場合,「また,お会いしましょう」と約束しても,社交辞令だけで終わってしまう。
「一期一会」という言葉がある。
私は,その言葉の意味をよく理解していなかった。
「一生に一度しかない無いものとして,悔いの無いものとしてもてなせ」ということが本当の意味であるという。
頭の中では理解していても,人と出会う時,私にはそれが「一期一会」だという心の覚悟がなかなか出きていなかった。
「優しさや心遣いにこだわりをもって,丁寧に人と応対すること」「一枚のはがきを書くにしても,相手の顔を思い浮かべ,相手の気持ちを慮り,どんな気持ちで読んでもらえるのか考えながら書くこと」など,とりわけ新しい交流を始めたり,誰かとつながりをもつとき,丁寧な心遣いを大切にしたいと思うこのごろである。
そして,ふと,私も多用する携帯電話やメールの「やりとり」ことが頭をよぎった。(K・T)