教育研究所
No.322「癒されること」ということ(2012年02月09日)
「癒される」が,心の疲れに対して頻繁に使われるようになったのは,ここ数年のような気がする。
時代の変化の影響を受けているのだろうか。
不透明で,先行きに不安を感じる時代であり,将来が見えにくい時代の影響なのだろうか。
癒される私たちから見れば,「癒し」てくれる主体は,自然の営みだったり,かわいらしい動物,人間の温かい心づかいや言動だったり様々である。
私たちの日常生活で,悲しみや怒り,つらく苦しいとき,そして寂しさや虚しさが極まると,前を向いて歩くことができないほど落ち込んでしまいそうになることがある。
そのようなとき,心や体を落ち着かせ,和らげて楽な気持ちにしてくれることを,癒しというのであろう。
テレビ番組のインタビューでも,よく「~に癒されました」という場面が出てくる。
「癒し」は今ブームのようだ。
「癒し系」という言葉もある。
「癒し」は,やまいだれのついた漢字である。
しかし,私には,「癒す」という響きは,決して,積極的な強いニュアンスとして響かない。
むしろ,「元気づける」とか「エンパワーメント」という方が「癒す」より積極的で,一歩進んだイメージを感じる。
しかし,今,「癒し」についてことさら考えなくてはならないこの時代に生きることの大変さを考えてしまう。
人と人とのつながりが親密で身も心も健康である時は,癒しなどについて深く考えなくても不都合ではない。
自然な人間同士の触れ合いが,自然な癒しとなっているからだ。
しかし,「癒し」をことさら考えなくてはいけないこの時代では,「癒される」を意識して考えざるを得ない。
癒しには,ゼロレベルからプラスに向かって「元気づける」ことより,もっと力のいる,マイナスのレベルからプラス或いは原点へ向かっての「癒す力」が必要になってくる。
単に「やさしく」とか「かわいいから」とか「和むから」などでは解決しないパワーが必要になるからである。
そのパワーのために,私たちには,お互いに積極的な「癒し」につながる行動が求められているような気がする。
癒されていた人が,癒す側の人になったり,癒す人が,癒やされる側の人になったり,その立場は常に入れ替わることになる。
いつも人は強いわけではないから,お互いに支えたり,癒し合うことが何より大切であると思う。
癒され合いの時代だから(K・T)