教育研究所
No.295珍説・奥の細道(2010年09月22日)
松尾芭蕉が弟子の河合曾良を伴って,全行程600里(2400Km)におよぶ150日間の大旅行を紀行文「奥の細道」として刊行したことは,誰もが知っている。
元禄2年3月27日(西暦1689年5月16日)に江戸・深川の採荼庵(さいとあん)を出立して,日光,黒羽,那須,白河,多賀城,松島,平泉,山形,新庄,出羽三山,鶴岡,坂田(酒田),象潟,越後,市振の関,越中,金沢,小松,加賀,山中温泉,小松那谷寺,大聖寺,福井,そして8月21日大垣に至るまでのことを綴ったものである。
ところで,芭蕉は,5月9日に松島を訪れ,その美しさに言葉もなく「松島やああ松島や松島や」と詠んだと巷間伝わっているが・・・このことにかかわる説2つ。
第一は,芭蕉は,松島では「いづれの人か筆をふるひ詞を尽くさん」として,ここでは句を読まなかったそうである。
「松島やああ松島や松島や」は,後の人の誰かが考え出した作り話であるというものである。
第二は,松島に1週間ほど逗留する予定であったが,地元にかなりの俳人がいて,芭蕉はあまり歓迎されなかったらしい。そこで,早々に切り上げて,5月13日には平泉の藤原3代の跡を尋ねたらしい。
確かめてはないが,このことが,曾良の記録にあるということである。
この歓迎されなかったことを嘆いて,「松島やああ松島や松島や」の句になったという。(この説は,東北を旅行した際に,福島交通の駄洒落ばかり言っているバスガイドの話にヒントを得て,私が創作したものである。ただし,第二の前半の話は本当のようである。)
この2つの説は,全く別のことではないと考えられる。
どこの地でも句を詠んだり,土地の人に俳諧の心を説いたりしていたのに,芭蕉が敢えて「いづれの人か筆をふるひ詞を尽くさん」といずれも行わなかった第一のことと,予定を早く切り上げ次を急いだ第二とは,芭蕉が置かれていた当地の状況に共通した捉え方がある。
どの地に行っても大歓迎されていたのに,この松島は?と,戸惑っている芭蕉の胸中を推測できる。
ところで,私の中学時代,国語の先生が,「松島やああ松島や松島や」を,芭蕉の詠んだ句の一つとして紹介し,絶景に感動して言葉を選ぶのを忘れ,感嘆の様を率直に表した名句であると,口角泡を飛ばして解説していたことを,半世紀も経った今思い出して,思わず大笑いをしてしまった。
「講釈師,見て来たような嘘を言い」ならぬ,「勉強しない教師,いい加減で,生徒を煙に巻き」である。
神経質になってはいけないが,ものごとは,「本当かな?」と確かめながら,知識・知恵として蓄えていきたい。
ICT時代,情報が,素早く,簡単に,格安に入手できるだけに,心したいものである。(H・K)