教育研究所
No.290手偏にム矢三くタ(2010年07月08日)
文化審議会による改定常用漢字表の答申案が示され,新常用漢字196字の中に「挨拶」が入った。
しかし,子どもたちと交わし,子どもたちに勧める「あいさつ」は,ぬくもりの言語感覚から言えば,今のところ,まだ,ひらがなである。
「挨拶」と書くと,どうも,盆暮れや新年の,多分に義理をともなったかたくるしさが残り,なじむまでにはしばらくかかりそうだ。
「挨」も「拶」も漢字辞典を引くと,どちらも「押す・迫る」という意味を持つ。
いずれの漢字も,他と結びついて熟語を作る造語力の少ない漢字で,これからも「挨拶」という熟語でしかまずお目にかからないだろう。
審議会でも「頻度の高い表外漢字の熟語」として付表あるいは別表扱いにする案もあったようだが,結局表内に入れることになったようだ。
とはいえ,小学校では,語感に無頓着な先生の学級通信や,はやりの漢字検定をあおる先生の掲示物ぐらいでしか多用されないものと思われる。
この漢字熟語は,かなりの年長者にとっても,字形と日常感覚がすんなりと結びつかなかったようで,覚えるための唱え歌があったという。
童謡詩人の阪田寛夫さんの詩でそれを知った。
(前略)
昔この字を習うとき
手偏に「ム矢三くタ」
むやみに食うから挨拶できない
なんて教わったんだけど
(後略)
『含羞詩集』(河出書房新社)に収められた,「挨拶の下手な人に」という詩の一節だ。「にかいの女がきにかかる(櫻)」のたぐいである。
しばらくぶりの常用漢字の見直しは,IT時代の漢字使用傾向によると言われる。
日本語の漢字変換性能が上がったために,書けなかった漢字が簡単に変換され,多用されるようになった結果,相当数の増加となった。
したがって,手書きの大切さを強調する一方で,「漢字表に掲げるすべての漢字を手書きできる必要はなく,また,それを求めるものでもない」という「なお書き」までついての増加である。
テスト出題の加熱やあおりに対するブレーキだろうか。
漢字は,表語文字である。一字で,語として文化や歴史,感覚までを背景に持つ。
使える漢字が増えるということは,それだけ文化が豊かになるということであってほしい。
生活感覚が豊かになり,文章によるコミュニケーションの機微を互いに味わう社会文化であってほしい。
「むやみに食うから心の通じない」漢字使用者にだけはなってほしくないし,私も,心して漢字を使う表現者になりたいと願うのである。(H・I)
注)「ム矢三くタ」の読みは,ムやみくタ(原典)。(引用は,社団法人日本文藝家協会のご協力をいただきました。)