教育研究所
No.289教師冥利-8-(2010年06月24日)
Y男はT教諭が担任をした生徒で教師になった一人である。
T教諭にはY男とのかかわりの中で,忘れることのできない出来事があった。
中学3年の2学期である。
この時期は,生徒が学習成績の「評定」に敏感になるときである。
2学期の「評定」が高校受験の重要な資料のひとつになるからである。
Y男が通知表に示された保健体育の評定「2」に納得できないと担任に申し出た。
話を聞いてみると,「H男の評定が『3』でなぜ自分が『2』なのか」が納得できないというのである。
(二人は平素から親しく,通知表を交換し合っていた。
また,足がやや不自由で実技を主とする授業を見学することが多いという共通点があった。)
T教諭は教科担任に連絡をとり,教科の責任において個別に説明をして理解を得たかに思われた。
後日,Y男の父親から「息子から話を聞いたがよくわからない。」という電話が担任にあった。
この件については,教科担任,担任の家庭訪問,担任と学年主任(父親と小学校の同級生)よる再三の家庭訪問によってなんとか父親の納得は得られた。
そして,後日,Y男も担任のもとに「先生方の説明を聞いて自分もよくわかりました。」と報告にきた。
T教諭は,この一件を通して教師の重要な職務のひとつである生徒の学習状況の評価について,改めてその難しさを痛感した。
また,こうした問題が発生した場合,学級担任はどう対処したらよいのかを考える大きな契機となった。
Y男は,某私立高校に進学し,その後教師の道を選び,現在,ベテランの小学校教師として勤務している。
毎年,T教諭に年賀状が届く。
そこには必ず子どもたちの成長を記した一文と写真が添えられている。
それを見るたびにあの時のことが思い出される。
そして,これからも子どもたちと自分の成長を目指して,Y男が教師として遭遇するであろう課題を乗り越え,自ら選んだ道を全うすることを願うのである。
因みに,Y男が中学3年の1学期に将来の夢や希望を託して書いた作文『10年後の自分』には,「教師になって子どもたちと学び,遊ぶ姿」が素直な文章で綴られている。(K・T)