教育研究所
No.274黙っているということ(2009年11月04日)
少し季節は過ぎたが,夾竹桃の花が咲き,日差しが強くなる頃,毎年思い出すことがある。
中学生だった時のことである。
私たちの中学校は,長崎の原爆爆心地の近くに立っていた。
ある日私たちに,担任が,級友のひとりが今日から欠席することを告げた。
彼女は,原爆の後遺症で,左手が不自由だった。
その手術のために,広島の大学病院に入院し長期の欠席になるということだった。
静かに聞いていた私たちは,何の声も発せず静寂を保った。
しかし,その静寂は,そこにいる誰もが手術の成功へ祈りの声としてひしひしと伝わったような気がした。
それまでも同じだった。
彼女の左手のことについて,いやなことやかばうようなことを言う人はいなかった。
ただ黙って,他の同級生と同じように自然に接していた。
数ヶ月経ち,彼女は教室に戻ってきた。
不自由だった左手に荷物を抱えて,教室に入ってきた。
左手に荷物を持っていることが,喜びの象徴のように思われた。
とても明るい顔だった。
「手術がうまくいったんだ」と,みんなが感じ,うれしい気分だった。
うれしいけれど,大げさには誰も騒がなかった。
彼女のまわりによって行き,普通に「お帰り」と声をかけた。
「黙っている」ことが,無関心ということではない場合もある。
思いやればやるほど,どう表現していいか分からなくなることがある。
黙っていることが一番いいと思えることもある。
互いの信頼が成り立って,「わかっているよ」という場合もある。
はっきりものを言わなくては,何を考えているか分からないという人間関係や集団の中では,黙っていることは誤解が生じるし,それぞれの意見が必要な場面では,黙っていては理解されることはない。
はっきり感想や意見を伝え豊かな表情ではっきりと言わなくてはいけない。
しかし,私たちにとって,心がつながり黙っていることが許される関係は,幸せな空間なのかもしれない。
言えることは,思いきり発言しても,黙っているとしても,安らかで自然な姿で理解し合える人と人とのつながりがそこにあるということが,なにものにも代えがたいものなのであるのだから。(K・T)