教育研究所
No.219待つこと(2007年06月28日)
「待つこと」は,とても大切なことだけど,とても難しいことである。
「待つこと」は,自分の意思や感情だけではなく,相手の意思や物事や自然の成り行きにそって行われる。
「待つ」ためには,自分の意思や感情をコントロールしなくてはいけない。
コントロールできないとき,「待つこと」はできない。
「待つこと」は,自分が相手のことを信頼し任せることである。
相手に対して少しでも,疑念を持ったり,信頼をなくしたとき,「待つこと」はいらだちに変わる。
相手のことを,十分に信頼しているときや,「待つこと」の意味を十分理解できる時には,待つことができる。
教師は,「待つこと」の大切さを子どもたちに話すが,教師は必要なだけ子どもたちを待っているだろうか。
「待つこと」はとても難しい。
考えたり,試行錯誤している子どもたちを待つことができなければ,子どもたちの内なる力を伸ばすことはできない。
そして教師は,どんな力をつけたいのか確かな見通しを持って,子どもたちを信頼し,子どもたちの成長を心から考えていなければ,「待つこと」はできない。
「いつまで待つのか」,「子どもたちの中にどういう姿・形が表出するまで待つのか」大きな課題である。
教科指導でも,道徳でも,学級活動でもあらゆる教育活動の中で,子どもたちから湧き出て来るものをどう待ちながら,教育活動を進めていくかは,とても大切なことである。
子どもたちが,新たに学んだことを,自分の思考や行動の型の中にすとんと,「分かった」,「そうだ」,「そうしよう」と入れるまで待つ必要がある。
もちろん学校のカリキュラムでは,時間が無限にあるのではない。
限られた時間の中で「待つこと」をどう入れていくのか授業を組み立てる必要がある。
小学校や中学校で授業を見る機会がある。
「もう少し待つといいのにな」と感じる場面に出会うことがよくある。
インプットしたことをもとに,考えたり,推測したりしている子どもたちは,思考力を働かせて,知識や技術を自分のものにすることができるのにと感じることがある。
教師が「待つこと」ができず,子どもたちの考えを遮り,結論を話したり,甘いヒントを出してしまう。
子どもたちの内なる力を信じることと,子どもたちの学習の成り立ちや思考のありようを理解した十分に吟味された指導プランを持つことが,子どもたちの成長に必要な「待つこと」を可能なものにする。(K・T)