教育研究所
No.163変わりつつある学校(2005年01月24日)
今,学校は変わろうとしている。いや,変わりつつある。
その一つは,「説明責任」(アカウンタビリティ)への対応に伴う変化である。
学校というところには,従来から外部に対して説明のしようのない「慣行」が存在していた。
また,学習指導であれ,生徒指導であれ,学校や教師の論理で進められ,処理されてきた。
それでも保護者をはじめ外部は学校のことだからということで「物申す」ことも少なかった。
物申した場合であっても,最終的には引き下がっていたのである。
学校はそれが当然であるかのごとく,自らを疑うこともなく事を進めてきた。
最近は,様相が一変した。学校で行うことに外部からの理解と納得が不可欠になったからである。
言うまでもなく,「評価と公開」のシステムは法的にも平成14年度からスタートしている。
一部にはこのことを行うことが「やっかいである」との不満を漏らしている向きもあるが,そうであってはこれからの管理職は務まらないと思う。
「説明をし,理解と納得が得られないことは行わない」と考えることが肝心である。
つまり,「評価と公開」のシステムをどう使いこなしていくかが求められているということである。
もう一つは,授業を変えようとする変化である。
「授業改善」というと聞こえはいいが,授業を改善することほど難しいことはないであろう。
教師の中に,授業は,「教師が教え,子どもが習うものである」という固定的な捉え方が払拭されないかぎり,「授業改善」は実を結ばない。
教師主導のいわゆる一方的な教え込みスタイルの授業が今なお散見される。
このような実態の改善こそが喫緊の課題なのである。
現在,授業を変えようとする試みが活発化している。
それらの中で価値ある実践は,「子どもが学ぶ」授業を追求しているものである。
このような着実な各学校の実践が線としてつながり,面として広がっていくことが大切なのではなかろうか。
これらの学校に共通しているのは,子どもに身に付けさせる力を矮小化することなく,人間性の発達に結び付けているところである。
理屈はどうにでもつけられる。問題は自らの授業を通してどのような人間を育てようとしているのかである。
競争社会を勝ち抜く人間を育てるのか,自らを確立し共に生きようとする人間を育てるのか。
授業を変えようとする試みや「授業改善」への指向は,このことと密接につながっていると思うのである。