教育研究所
No.415 「巡るのか,開かれるのか……世相の歴史に思う」(2015年3月27日)
《“修身科”を独立教科にして小学校,中学校で道徳教育をやりたいと松永文相はいっている。教科書は間に合わなくても,来春の新学期から実施したいと,足もとから鳥の立つようなあわて方である。》
あれ?「道徳の特別教科化」の間違いだろうとか,文部科学大臣の名前が違うぞ,などと思う人は少なくないだろう。
今,古書店で見つけた昭和32年の「天声人語」を読んでいる。(荒垣秀雄『コラムのつぶやき』昭和33年角川書店刊)
片田舎の,まだ小学校三年生だった私にとって,当時,朝日新聞も天声人語も目に触れる機会もなかった。今,新しい本としてこれに出会うと,時代と世相が目の前で起こっているかのように見えてくる。戦後11年,復興に光が見えてきて,南極に宗谷が越冬隊を初めて届けた年である。水爆実験で第五福竜丸が死の灰を浴びた2年後である。コラムには,被爆,放射能の人体への影響から,核反対の内容も繰り返し書かれている。宇宙からのハヤブサの帰還や,あの震災津波の記憶,何より福島原発の状況を考えれば,今と変わらないではないか。そして冒頭の引用文である。
歴史は繰り返すのか。技術や文化は開かれても,人身は変わらないのか。
変わらないから,繰り返し,同様の主張が登場し,往時の先達が断念させた多様な懸念を払拭するのだろうか。
ここで強い主張をするつもりはないが,「先達の懸念」もしっかりと読んでおきたいと思った。著者は,このコラムを次のように結んでいる。
《古い愛国心の“臣民的国民”をつくるよりも,よき市民を育てることが大切で,「昔はよかった」式の懐古趣味で修身科を復活するのは賛成できない。(32年8月7日)》
今年小学校に入学する児童は,高等学校を終えるのは平成39年(2027年)である。私たちは,その時代を可能な限り予測し,そこに向けてどのような教育を積み重ねていくかを考える必要がある。例えば,その年,この子供たちは選挙権を有しているだろう。そこに向かってどんな市民教育をしていくのか。
終わりに,蛇足だが,同じ年の5月8日のコラムには次のような話題が取り上げられている。《岸首相には“岸ブーム”というほどの人気がわかないといわれていた。それがお伊勢参りやお国帰りから“岸ブーム”みたいなものが出てきたと御本人が思いはじめたのか,いうことが少々怪しくなってきた。「自衛権の範囲なら日本は核兵器をもってもよい」と参院内閣委員会で述べたのがそれだ。》
岸首相といえば,今の安倍総理の……。(H・I)(2015年3月27日)