教育研究所
No.420 「読書とスマホ」(2015年4月28日)
電車に,小一時間通勤している。車内ですることは,新聞の切り抜きを読んだり,難しくない新書などを摘み読みしたりしている。時には,考えごとをすることもある。いずれもすぐに飽きてしまう。
そこで,失礼のないように気配りをしながら車内を見回し,「ウオッチング」をすることになる。今日は,何をしているかを「テーマ?」にした。
早朝だったので,視野に入った37人を観察(失礼)した。以下の通りである(ジェンダーフリーの時代,性別は省略)。じっと瞑想(眠っているかもしれない)5人,隣とおしゃべり6人,飲食をしている4人,スマホ(含むガラケイ)11人,新聞(日経が大部分,以後1人)5人,読書6人と,いう状況であった。
スマホが少なかったこと,新聞・読書が意外に多かったことにホッとした。時代に取り残された私は,ガラケイを所持しているが誰からもかかってこない(本当は,日曜日夕刻TV「笑点」の老人いびりをしている腹黒いキャラよろしく,友達がいないので)。
活字による情報検索を何十年と続けてきた人間にとっては,新聞を読み,本を熟読する姿に接するとホッとし,なぜか心が安定する。新しいタイプのシーラカンス人間になってしまったのかもしれない。
どうしても,活字本をはなすことができない。だから,孫が本を読んでいるとニコニコ爺さんになってします。ところが最近,漢字や言葉の意味を調べるのに,老妻の電子辞書を使って簡便に調べているのを見て,「○○(孫)よ,お前もか!」と,残念に感ずる。時代の流れは,自分が受け入れられなくても,認めなくてはならないのだろうか?(H・K)(2015年4月28日)