教育研究所
No.536「電車の中の高校生たちから」(2016年3月10日)
私は,利用している電車の中で,ろう学校の高校生たちが楽しそうに会話をしている場面によく出会う。手話や補聴器が見えなければ聴覚に障害のある生徒たちとは気づかない。学校でのことや青春の悩みなどを語り合っている様子がわかり,微笑ましい車内の光景に心が和んでくる。
私が訪問したろう学校では,子どもたちが自立した社会人になるために,幼稚部から高等部まで設置され一貫したキャリア教育を推進・指導をしている学校である。
生徒たちは,自分の将来の目標や希望する職業に対し,明るく前向きに努力を重ねている。調理師免許や様々な検定試験に合格して,社会人として立派に独り立ちをしている卒業生も多い。
生徒の中には,漢字検定や英語検定等にも取り組んで大きな成果を挙げるなど,学校でも,資格取得に熱心に取り組んでいる。それは,ただキャリアのためというだけではなく,学びの目標の一つでもある。学校の資格取得についての取組は,生徒たちにとって「生きる力」になっていると感じている。
大学や専門学校へ進学を希望する生徒も増加傾向にあり,生徒たちの未来への強い意欲や思いが伝わってくる。しかしながら,彼らの前向きな志とは別に,社会の無理解もある。
先生が付き添ったある大学の説明会でのこと。ある生徒に「一人で通学できるのですか」「体育でバスケットボールはできますか」との質問に,生徒は戸惑ってしまった。また,聴力は重度であるが発話は聞き取る力のある生徒に対し「日常的に何も問題ありませんね」と言われ,先生は,「入学後の配慮は特に大切なことです」と答えたということである。
そのような話を聞きながら,私は,司馬遼太郎が「二十一世紀に生きる君たちへ」の中で未来の大人になる子どもたちに語りかけていることを思い出す。
『自然の一部でもある人間は,自然と共存し,助け合って生きている。助け合うという気持ちや行動のもとは,「いたわり」という感情である。「いたわり」という感情を大切に行動したい。いたわりは,「やさしさ」,「おもいやり」,「他人の痛みを感じること」と同義でもある。ころんだ友だちに対し「さぞ痛かったろう」と感じる気持ちを自分の中につくりあげなさい,そのような感情をその都度つくり,自分には厳しく,相手にやさしい,そしてたのもしい自己を確立してほしい』と,熱く語りかけている。
電車の中で出会う高校生たちの印象的な笑顔がいつまでも心に残っている。私たちは,いたわりという気持ちがあるとすれば,障害者の胸中で感じるものはどのようなものなのか,一度立ち止まって心する必要があるのだろう。(H・H)
(2016年3月10日)