教育研究所
№665「言葉の移り変わり」
最近,時代とともに変わっていく言葉について考えさせられた。(「日本教育」2017年4・5月合併号「時代の流れで消えていく言葉」加藤昌男を読んで)
確かに,言葉は時代の変化を反映している。玄関で,爺婆は孫に「履かない靴は下駄箱にしまいなさい」と言い,両親は「靴はちゃんと靴箱に入れなさい」という。さすがに,学校では先生も子供の「靴箱」と言っている。地域の高齢者が,時に「下駄箱」と言っていることもあるが。
孫は,学校の宿題の漢字ドリルは「漢字を書く」と言い,パソコンでゲームを検索するときは「ローマ字入力する」と言い,キーボードで「文字(字)を打ち込む」と言うなど,加藤氏の言う通り「書く」「入力」「打ち込む」などと,色々に表現している。
そういえば,買い物をしたとき,頭の中で暗算をして「毎度あり,245円です」あるいは算盤をはじいて「はい,2378円でございます」,それがレジで品物の値段を打ち込んで「チン,はい,968円です」となり,今では計算はせず店員がタグをレーザーにかざすとAIが自動的に計算してくれ,出した金額と代金を比較して,つり銭もジャーンと出してくれる。「毎度ありがとうございます」と形式的な挨拶があって,「お待ちどう様でした」と次の客の方に目が移り,人間的な会話はない。自動レジになるスーパーも出来ているから,これからは,黙って品物を出し,AI内蔵の機械が清算をして,「アリガトウゴザイマシタ。マタ,イラッシャイマセ」ということになるのだろうか。人が,生の言葉を話す機会が激減するかもしれない。「お喋り」が絶滅するかもしれない。(YAYU)
(2017年6月26日)