教育研究所
№781「『はやい』の価値」
速いことに価値のある典型は,100m走である。日本の最速は桐生祥秀の9.98秒(2017年9月8日全日本インカレ陸上)である。世界の最速は,ジャマイカのウサイン・ボルトの9.58秒(2009年8月16日ベルリン大会)である。女子は福島千里の11.21秒(2010年4月29日織田記念陸上),世界最速はUSAのフローレンス・ジョイナーの10.49秒(1988年7月6日インディアナポリス)ある。「速い」ことに価値のあることを,全ての人が認める好例である。
ところが,教室の壁に「は・か・せ」と掲示され,「速い」「簡単」「正確」を検討・比較の視点として,複数の考え方や仕方の価値づけをさせている先生が少なくない。それも算数の授業においてである。
「か(簡単)」は簡潔,「せ(正確)」は的確という意味においてというなら,フランスのH.ポアンカレも「数学は,物事を発展的・統合的に見て,より簡潔・明瞭・的確」なものを求め続ける態度が重要である」と言っているので,まあ大目に見ることができるかもしれない。
しかし,「は(速い)」は,どうしても価値ある有効な視点として納得できないのである。算数の学習において,「速さ(素早く処理できるの意)」の要求される場面に出合ったこともないし,要求されたこともないし,算数・数学で要求される資質・能力の「数学的な見方や考え方」「数量や図形についての知識・技能」「数学の学習に主体的に取り組む態度」のどの観点にも「速さ」は求められていない。算数の学習で「速さ」を求め続けていたら,「AI(人工知能)」に対応できない人間を育てることにならないか危惧するところである。
百歩ゆずって,四則計算において「計算の原理に基づいて処理する」よりも「計算原理をアルゴリズム化して,筆算など形式的に処理する」ほうが,速くて便利であるということは,確かにある。でも,砂漠の中の一粒の砂くらいの価値しかない。それを算数の学習全体に広げて,子供の「発想の創造性」をミスリードしないでほしい。(後期高齢者への反論,提案,大歓迎!) (K・H)
(2018年2月5日)