教育研究所
№805「芭蕉の見た千住」
本棚を整理していたら「奥の細道風景」(萩原井泉水著現代教養文庫336)が出てきた。表紙裏に1960.11.25とメモがあった。教師2年目の頃である。
懐かしく,読み返してみた。はじめの方に「千住」というくだりがある。芭蕉は,千住から見送りの門人たちと別れて,千住で旅の草鞋を履いたとある。当時は奥州街道の第一の駅で,宿場として賑わい,青物,川魚などの市場があり,物資の集散地だったそうだ。
著者は,昭和30年代に千住を訪れた印象を「都電もあり,省線もあり,バスも通じている。都内の一隅として,工場地を背景にもつ大商店街として繁栄している」と記している。私が,昭和44年頃その近くに住んでいたが,都電とバスと常磐線(日本国有鉄道)とトロリーバスが走っていて,工場もたくさんあった。
最近,孫と鉄道模型展を見に行ったときは,北千住駅を中心とした大きな商店街,マンション群,バスと,ずいぶんと変わっていた。勿論,都電やトロリーバスは走っていない。
変われば変わるものである。松尾芭蕉が,今の千住に立ったらどのような俳句を詠むだろうか。(H・K)
懐かしく,読み返してみた。はじめの方に「千住」というくだりがある。芭蕉は,千住から見送りの門人たちと別れて,千住で旅の草鞋を履いたとある。当時は奥州街道の第一の駅で,宿場として賑わい,青物,川魚などの市場があり,物資の集散地だったそうだ。
著者は,昭和30年代に千住を訪れた印象を「都電もあり,省線もあり,バスも通じている。都内の一隅として,工場地を背景にもつ大商店街として繁栄している」と記している。私が,昭和44年頃その近くに住んでいたが,都電とバスと常磐線(日本国有鉄道)とトロリーバスが走っていて,工場もたくさんあった。
最近,孫と鉄道模型展を見に行ったときは,北千住駅を中心とした大きな商店街,マンション群,バスと,ずいぶんと変わっていた。勿論,都電やトロリーバスは走っていない。
変われば変わるものである。松尾芭蕉が,今の千住に立ったらどのような俳句を詠むだろうか。(H・K)
(2018年3月12日)