第2回 「お任せ主義」の落とし穴
広島大学大学院人間社会科学研究科准教授
カトウ先生のクラスに、ベトナムからの転校生ミンさんがやってきました。
ハヤシさん:そうそう、この前話していたベトナムから来た子、その後どう?
カトウ先生:ミンさんのことね。校長先生を通して教育委員会に相談をして、加配で日本語指導の先生が来てくれることになったよ。まだ日本に来たばかりということもあるし、週5回で国語の時間の替わりに日本語の勉強をしているよ。
ハヤシさん:え、ほんと! よかったね! 週5回ってだいぶ手厚いし、本当によかった。
カトウ先生:そうなんだ。少し心配が減ったよ。
ハヤシさん:ところで、ミンさんはどんなふうに日本語を学んでるの?
カトウ先生:え、ううん......。それは知らないなあ。日本語教室はクラスからは離れてるけど、ちゃんと「いってらっしゃあい」「お帰りい」って挨拶してるよ。
ハヤシさん:へえ、そうなの。日本語の先生はどんな人なの?
カトウ先生:それもよく知らないなあ。他の学校にも行ってて学校にいつもいるわけじゃないし。あっ、先生にも「いつもありがとうございます」って言ってるよ。それ以上は何も言えないよ。日本語教えてくれるだけでありがたいし......。
ハヤシさん:でもさ、ミンさんの学級での様子がわからないと向こうも困るだろうし、向こうでミンさんができるようになったことをカトウさんが知らないのもどうなのかな。
カトウ先生:まあ確かに、こっちも忙しいからついついお任せしちゃってるところはあるなあ。向こうでどんな感じで学んでるのかわかると、こっちでもミンさんへ声もかけられるしね。
ハヤシさん:そうだよ! ミンさんを通して先生どうしがつながるって大事じゃない?
カトウ先生:確かにね。今度ちょっと様子を見てみるよ。
外国につながる子どもたちに対して日本語指導が必要だと判断されたときには、かつては学校の裁量に対応が任されていることが多くありました。しかし、2014年に「特別の教育課程」として、小・中学校で日本語指導が取り扱えるようになり、高等学校における特別の教育課程も整備の動きが加速しています。こうした中で、学校として経験がなくても、教育委員会などを通して子どもに対して日本語指導の体制をつくっていくことは、とても重要になっています。
とはいえ、そこには「体制整備の落とし穴」もあります。ハヤシさんとカトウ先生の会話にもあるように、日本語指導の先生がつくことはとても大事なのですが、しばしば「お任せ」状態になることがあります。また、日本語教室は学校の片隅に置かれることも多く、通う子どもも、教える先生も、立場が隅に置かれてしまいやすいこともあります。でも、実は、ふだん教室ではおとなしい子どもたちが、日本語教室では別人のように日本語でおしゃべりをしていたり、意見を言っていたりすることも多く見られます。教室では、「日本語ができない」という他人の評価と自分の判断を敏感に読み取って黙っている子どもたちが、解放と安心の中で別の力を発揮することも多くあります。そうした空間での様子、クラスでの様子をつなげていくのは、まずもってカトウ先生のような立場の人かもしれません。(日本語指導の先生も、ときに職員室の中でマイノリティになってしまい、「忙しい」とみられる担任の先生に声をかけにくくなっていることも多いです。)
声をかけることが難しい場合は、「日本語教室とクラス担任の連絡帳」のようなものがあってもいいかもしれません。また、管理職の先生においては、「日本語教室の場所」を工夫することも重要です。空き教室の活用ということで人目に触れない場所になることも多いのですが、そうではなく、校内の目につくところに置くことで、日本語指導の先生も子どもたちも堂々と通えるようになりますし、先生どうしだけではなく、子どもどうしも含めて声をかけたり、「頑張っている姿」が見えやすくなったりするのです。「専門家にお任せ」して安心するのではなく、ともに働く立場の違う仲間として、学びを共有できるしかけや行動が、子どもを認めていくことや成長につながっていくのです。
【著者プロフィール】
言語的文化的に多様な子どもたちをめぐって、ことばと文化の共生の点から力のある授業と学校をデザインしていこうとする教師教育の仕事をしています。