緑の心臓
すやまたけし
何から書いたらいいのだろう。ぼくの頭は今,非常に混乱している。この言いようのない漠然とした不安は今までに経験したものとは明らかに違う。しかし,まったく絶望しているわけでもないようだ。未来への希望すら感じている。
きみは覚えているだろうか。一年前の春に,この町で起こった事件のことを。Wという男が死んだ。その死にかたが奇妙なものだったので,新聞でもわりと大きくとりあげられた。それをきみも読んだと思うのだが。
このWの死に,ぼくも少なからずかかわっていると言ったら,きみは驚くだろうか。
今回の手紙はどうしてもそのことに触れなければ説明できないので,それから書くことにしよう。
ぼくがこの町に来て,もっとも親しくなった友人がそのWという男だった。
彼とはよく旅に出たものだった。一昨年の秋にも,ぼくたちは二人で,北のシーズ県の県境にある樹林帯に出かけていった。原生林の深い山を登り,渓流の川原にテントを張って一泊した。その山は広葉樹の原生林におおわれ,秋の紅葉,黄葉が非常に美しかった。
陽の光はその木々の葉の間にきらめき,色づいた葉はオレンジ色に燃えていた。上を見あげると,落葉が絶えることなく静かに舞い落ちていた。ぼくたちはその自然の美しさに,長いこと言葉もなく見とれていた。
テントで一夜を過ごした次の朝,目を覚ますととなりに寝ていたはずのWがいないことに気がついた。彼は数時間後,森の中から戻ってきた。
彼は思いつめたような顔をして,ぼくがいろいろ聞いても何も答えてくれなかった。
その旅から帰った彼はとても無口になった。彼はいつもどこか遠いほうを見つめるような眼をしていて,何を考えているのかぼくには理解できなかった。あの森での朝以来,彼の心の中で大きな変化があったということを推察するばかりだった。
白い沈黙の冬が過ぎ,去年の春のある日,ぼくはWに呼ばれて彼の部屋にいった。
「ようやく,どういうことなのかわかりかけてきたところなんだ」と彼は話しはじめた。
例の朝,彼は目覚めると,何かに呼ばれるように森の中にはいっていった。そして,彼は不思議な木に出会った。彼がそれまで見たこともない珍しい木が一本,彼を待っているかのように深い森の中に立ちつくしていたというのだ。
その木は枝が揺れるたびに黄色い粉をまき散らした。その木を見上げる彼の上に黄色い粉は降りかかってきた。彼は身動きもできないでその黄色い粉に染まっていった。何かわからないが,彼は自分の身に重大な変化が起こっているのを感じた。
町に帰ってからも,彼は木から受けた不思議な体験が何であるのかを考えつづけた。そして,彼はぼくに次のような話をしてくれた。
地球の原始大気は二酸化炭素が多かった。やがて海に生命が生まれ,進化の過程で葉緑体を持つ植物が発生した。植物は大気中に豊富にある二酸化炭素と水を取りいれ,光合成によって炭水化物を作り,酸素を大気中に吐き出した。地球は緑におおわれ,大気中の酸素は増大し,今度はその酸素をエネルギー代謝に利用する動物が現われた。
現在の大気は酸素量が,原始大気に比べたら非常に多くなっている。その反面,二酸化炭素は減少している。
実は,植物にとって現在の大気はかならずしも最適な環境とは言えない。もっと二酸化炭素の濃度が高いほうが植物の生育や成長も良くなるという研究結果も出ている。
また,人類は文明の発達にともない,石油や石炭などの化石燃料をエネルギーとして利用するようになった。化石燃料や木を燃やすということは,炭化水素を酸化して,二酸化炭素と水を作るということだ。つまり,植物が大気中の二酸化炭素と水から炭化水素と酸素を作った過程の逆の反応だ。
人類が,化石燃料を燃すことによって,大気中の二酸化炭素は年々,増加しつづけている。これは実は,酸素の多くなりすぎた大気を,ふたたび太古の炭酸ガス型の大気に戻そうとしていることではないだろうか。人類は大気のバランスをとるためにこの地球に発生したのではないだろうか。
ぼくはその時,彼の説明をまったく理解できなかった。しかし,彼はそのことを森から帰って以来,ずっと考えていたようで,その話し方には自信が感じられた。
「これからはもっと,大気の二酸化炭素はふえつづけ,酸素は減り,やがて人類が住みにくく植物が暮らしやすい時代がくるだろう。そして人類は化石燃料を使い果たし,減少するか滅びるかして,ふたたび地球は緑におおわれるようになる。そのことが最近わかってきたんだよ」
彼は一人でうなずくと言った。
「これを見てくれ」
Wは自分が着ている厚ぼったいトレーナーの裾をつかむと,首のところまでまくりあげた。彼の胸が現われ,その左胸に変なものがついているのをぼくは見た。
Wはその緑色の物を指さして言った。
「これ,わかるかい。胸から木が生えているんだよ。春先に芽が出て,こんなに大きくなった。きみはまだ何もわからないだろう。でも,今にわかるようになるよ」
彼はきょとんとしているぼくにかまわず,トレーナーを元に戻した。
「もし,ぼくに何かあったら,この胸の木をどこかに植えてほしいんだ」
ぼくはその日,彼の話したことの何が本当で何が嘘なのかわからないまま,自分の部屋に帰った。
それから数日後,Wの姿を見なくなると,ぼくはすぐに彼のところへ電話をかけた。何度かけても出ないので,彼の部屋へかけつけた。そして,預かっていた鍵でドアを開け,部屋にはいった。
Wはベッドの上であおむけになって死んでいた。
彼のシャツをあげると,胸には緑の木がちゃんと生えていた。ぼくは彼に言われたように,その木をつかみ思いきって引き抜いた。わりと簡単に抜けた。根はかなり成長していて,Wの緑色の心臓を包むようにからみあっていた。
こんなことは誰に話したって信じてもらえないだろう。ぼくはその木を町の森林公園のかたすみに植えた。
その木は,日ごとに大きくなっていった。
秋になったある日,ぼくはいつものようにその木のところで,Wの言っていたことを考えていた。
その木は風に揺れると黄色い粉を散らしはじめた。ぼくは黙って両手をひろげ,その種子とも胞子ともつかない粉を全身で受けとめた。
冬が過ぎ,この春になってぼくも彼の言ったことがわかるようになった。そうなんだ。ぼくの胸にも例の芽が出てきたのだ。それは少しずつ成長して,今ではもう,Wの時と同じぐらいの大きさになった。やがて,ぼくもWと同じ運命をたどるのだろう。しかし,緑の木として再生できることには絶望よりも希望を抱いていることも事実だ。
そして,そのための願いでもあるのだが,きみにぼくのこの胸の木を頼みたいと思う。ぼくがWにしてあげたようにこの木を抜いて,ぼくの生まれ育ったヨード市の丘に植えてほしい。あの丘は町を見渡せるところにあるので,秋になって風が吹くと,ぼくの黄色い粉は町一面に降りまかれることになるだろう。
それは想像するだけでも,美しい光景ではないだろうか。
(『火星の砂時計』株式会社サンリオ1988年現在は絶版)