モルゼ丘の風車列
すやまたけし
ナーガラ町の東側にあるモルゼ丘の上で,空見官のベルンはいつものように西の空を眺めていた。
空は青く,白いすじ状の雲が薄く何本か高い空に走っていた。
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モルゼ丘からは,ナーガラ町が一望のもとに見渡せる。マージ運河の向こうに,美しい色とりどりの屋根の家々が集まっているのが見える。高い尖塔を持った教会が,その中では一番,目立っていた。
町のまわりには,農場や,牧場や,草原が広がり,ところどころにある森や林の木々は,細い枯れ枝を寒い空に向けていた。
冬の今は,牧場や草原はすっかり枯れて,くすんだ色を見せていた。春になると,それらは一面に緑の若い草が芽ぶき,モルゼ丘からの眺めは一段と美しいものになる。
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ベルンは空を眺め,耳をすまして,吹き渡る風の音を一人で聞いていた。
彼は代々つづく空見官で,風の強い日も,雨や雪の日も,こうして毎日,モルゼの丘の上で,天気を見ているのだった。
彼の天気予報は,町の人々の暮らしや,風力発電所の発電計画や,飛行船の運航計画などに非常に役立っていた。彼はモルゼ丘にある小さな家に,一人で住んでいた。
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ベルンの耳には,風の音や鳥の声とともに,風力発電用の風車の巨大な羽根がまわる音が聞こえていた。
モルゼ丘の丘陵地帯には,町の電力をまかなう風力発電のための何十基もの風車が,何列にも立ちならんでいた。風車の白い塔の列と,それぞれの羽根がまわっている姿は,生き生きとして壮観なものだった。
ナーガラ町の人々は,このモルゼ丘の風車の列を見るのが好きだった。
また,それらが力強くまわる姿に,言いようのない頼もしさと誇りを感じていた。
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ベルンが空を見ているところに,少年のヨーマがやってきて言った。
「こんにちは,ベルンさん,今日も一緒に,空を見させてください」
「やあ,いいとも,ここにおいで」とベルンはやさしく言って,自分が坐っている白い木製のベンチのとなりの席をすすめた。
ヨーマは空見官の仕事に憧れていた。モルゼ丘の上で,毎日,空を眺めて,自然とともに暮らすのは素晴らしいことのように思えた。町の人々の役にも立つだろう,それに,ベルンさんは一人暮らしで後継ぎがいないじゃないか,とヨーマは思った。しかし,いまだにヨーマはベルンのように天気を見ることはできなかった。
「いつも,こうして,ベルンさんと同じように空を眺めているのですが,明日の天気をわかるようになりません。ぼくには,もともと素質がないのでしょうか。」
「そんなことはないさ。私だって初めは何もわからなかった」
「ベルンさんは,お父さんも,そのまたお父さんも,代々,空見官だったのでしょう? やはり,血がつながっていないと無理なんじゃないですか?」
「いや,私はそうは思わないね。きみにだってできるはずだ。毎日,空を見ているうちに,きっとわかるようになるよ」
「ぼくは,もう随分,長いこと,ここに来て空を見ていますよ」
「まだまだじゃないかな。私も子供の時に,父とならんで空を眺めながら,いつになったら空がわかるようになるかと疑問に思った。実際に父に聞いてみたこともあった」
ヨーマは青い空を見ながらベルンに聞いた。
「それで,どうでした?」
「父は,私に何も教えてくれなかった。そのうちにわかるようになる,と言うばかりだった。そうなんだ。それは誰にも教えられるものじゃない。自分で学び,自分で気がつくものなんだ。ここにいて,空を見て,その者の感覚と経験から自然と身につくものだ」
「ベルンさんはそれをいつ頃,わかるようになったのですか?」
「私が天気がわかるようになったのは,そうだな,ヨーマより,もう少し大きくなった頃だったかな。私はここで,一人で空を見ていた。空は時とともに変化している。空の色も,雲の形も,一度として同じものはない。空はつねに動きつづけている。私は空を見つめ,耳元をかすめていく風の音を静かに聞いていた。風を身体全体で感じていた。心のなかはからっぽになり,時間の流れも他のことも,何もかも忘れることができた。身体中の力は抜けて,とても気持ちがよくなっていた。心は広がっていき,自然の中に溶けていくようだった。私は目をつぶり,両手を広げた。私の身体はこの丘の上で,大きく広がっていくようだった。足の先は,地平線にまで届くように感じたし,広げた両手の先は大空よりも広く,ずっと遠くにあるように感じた。私の身体は,自然と一体になっていた。そして,私は次の日の空を見ることができた」
「へえーっ」
「私は夢を見ていたのではないかと思った。頭はすっきりとして,さわやかだった。また,天気がわかった喜びで胸がいっぱいだった。私は走って,家にいる父のところへ報告をしにいった。父は,心から喜んでくれたよ。そうだ,それだよ,とうとうわかるようになったかと祝福してくれた」
「その時の天気予報は当たったのですね」
「もちろんだよ。次の日,空は私が前の日に見たとおりだった。それ以来,日毎にそういう体験ができるようになり,何年か後には,父の予報にも負けないまでになった。それに,次の日だけではなく,長期的な気象までわかるようになった」
「その感覚は,ぼくにはまだ何もわかりません。どんなものなのでしょう?」
「そうだろうよ。それは言葉で説明できるものじゃない。私もそれまでは,想像できなかった。これは本人が,身体と五感と心で感じるものだ。ヨーマも,その時がくればわかるだろう。そして,感激するだろう。それは私の人生の中で,もっとも美しい感動だった。きみにとっても,同じだと思うよ」
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そのあとも,二人はならんで西の空を見つづけていた。
ヨーマは相変わらず,ベルンから教えてもらった体験は訪れそうになかった。ふと,ベルンが言った。
「さあ,明日の天気はわかった。そろそろ,家に入ろう。発電所にも,明日の風予報を伝えなくてはいけないからね。それに,私は暖かいお茶が飲みたくなった。どうだね,ヨーマも家でお茶を飲んでいかないかね」
「はい。ああ,今日もぼくは駄目でした。まったく,わかりません。それじゃ,お茶をごちそうになることにします」
二人はベンチから立ちあがり,ベルンの家に向かった。
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風力発電所のコントロール室の電話が鳴った。ラント所長が出ると,空見官のベルンからだった。ラント所長は,ベルンからの天気予報を電話で受けながら,計画表に時間ごとの風力予定を書き入れていく。そして,それが終わると,計器を見ているホイル技師に話しかけた。
「今夜は雲が出るが,朝には晴れるそうだ。明日の午後は風力が強いので,余剰電力は蓄電槽にためられるだろう」
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若い気象官のカーマンが,コントロール室に入ってきた。手には分厚い計算結果の束を抱えている。
「こんにちは,ラント所長。明日の天気予報の計算ができました。ベルンさんの天気予報は,もう届いていますか?」
「はい,さっき電話があったところです。どうぞ,この表をご覧ください。」
とラント所長は答えた。
カーマンは,自分の計算結果とベルンの天気予報とを比べて言った。
「ええと,今日も随分,違いますね。ここのところも......,ぼくの計算だと,今夜から強風が吹くはずなんですがね。おまけに,明日は冷たい雨の予定です。おかしいな。ぼくの風方程式による計算は間違いないのですが」
「理論が正しくても,その計算に使うデータや条件が違っていたら駄目なんじゃありませんか?」
「そうなんですよね。ベルンさんもそう言っていました。それに観測点のデータが少なすぎるのも原因でしょう」
「カーマンさんの予報では,まだ,この風力発電所の計画は立てられませんね」
「本当に,いつになったら,誤差範囲以内で天気予報ができるようになるのでしょう。この秋の台風の時も,ぼくの計算による予報でみんなが計画を立てていたら,風車の羽根は何本か吹き飛び,飛行船は事故を起こしていたかもしれません。あの時も,ベルンさんの天気予報があったから,この町はなんともなかったのですから」
「まあ,がっかりしないで。カーマンさんの風方程式は理論的には正しいのですから,今にきっと予報ができるようになりますよ」とラント所長が暖かく言った。
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モルゼ丘から見るナーガラ町は,少しずつ暮れていくところだった。太陽は西の空に傾き,町は影におおわれていく。
ベルンの家をあとにしたヨーマは,薄暗くなっていく空を見ながら,ベルンの話を思い出した。
西の空には,冬の灰色の雲があらわれ,その雲はゆっくりと広がっていくようだった。空は変わりつづけている。
ヨーマはじっと目をこらして,その雲の動きを見つめた。しかし,彼はベルンのように,明日の空を見ることはできなかった。
ヨーマは,自分がいつになったら,空見官のベルンのように天気がわかるようになるのだろう,と思った。
冷たい風が,モルゼ丘を吹き渡っていく。ヨーマの耳には,風の音とともに,風車がまわる音が聞こえていた。
ヨーマは寒くなって,服のえりを立てた。そして,彼は口を固く結んで,モルゼ丘の坂道を自分の家に向かっておりはじめた。
(『ナーガラ町の物語』株式会社サンリオ1988年現在は絶版)