数学問はず語り 第9回
点描/モンゴルの人々,そして算数・数学教育(その4)
岡本光司(元静岡大学教授)
イメージ1
◆ウランバートルでは,どの学校も同じ校舎内に小・中・高が併設され,午前と午後の2部授業が行われていた。私は,そうした学校の一つ,市内の中心部にある第一学校を訪れた。初めに小学3年(年齢は日本の5年生に相当)の授業を参観したが,私は大変なカルチャーショックを受けた。そこでの授業は,先生が問題を一つ板書し,それを子どもが解くというもので,数分して解答し終えた子どもがいると,その子に解答を板書させ,それが正解だと,先生が次の問題を板書し,子供が解く,といったことが繰り返されていた。できていない子どもがいても,そのまま授業が進められていくし,どのように考えたのかが問題にされることもない。子供どうしでディスカッションするといった姿を目にすることもなかった。
中学3年の数学の授業も同じようであった。先生が教科書の問題番号を板書し,生徒がその番号の問題をそれぞれ解き始める。生徒の座席はテストの成績順に決められていて,黒板に向かって左側前方が成績のよい生徒の席だという。数分して,できた生徒に,それは成績上位 の生徒数人に限られていたが,解答を板書させ,間違いがあると教師が解説を加える。
イメージ2
◆ウランバートルでは,どの学校も同じ校舎内に小・中・高が併設され,午前と午後の2部授業が行われていた。私は,そうした学校の一つ,市内の中心部にある第一学校を訪れた。初めに小学3年(年齢は日本の5年生に相当)の授業を参観したが,私は大変なカルチャーショックを受けた。そこでの授業は,先生が問題を一つ板書し,それを子どもが解くというもので,数分して解答し終えた子どもがいると,その子に解答を板書させ,それが正解だと,先生が次の問題を板書し,子供が解く,といったことが繰り返されていた。できていない子どもがいても,そのまま授業が進められていくし,どのように考えたのかが問題にされることもない。子供どうしでディスカッションするといった姿を目にすることもなかった。
中学3年の数学の授業も同じようであった。先生が教科書の問題番号を板書し,生徒がその番号の問題をそれぞれ解き始める。生徒の座席はテストの成績順に決められていて,黒板に向かって左側前方が成績のよい生徒の席だという。数分して,できた生徒に,それは成績上位 の生徒数人に限られていたが,解答を板書させ,間違いがあると教師が解説を加える。
モンゴル国立教育大学数学科長バトラー教授が,こんなことを話してくださった。学校を訪問し,授業を参観すると,その言葉にうなずけてくる。
「モンゴルでは,数学と外国語とモンゴル語の教育に力を入れています。中学校では頭を良くするために数学とモンゴル語の勉強をたくさんやらせています。小さいときに数学をやると頭がよくなるからです。そして,国際数学コンクールでよい成績をとることを目標にしています。」高度な算数・数学の内容,優秀な児童・生徒中心とした「問題を解く」授業,目標は国際数学オリンピックなどの国際コンクールでの受賞。私には,そこから次のようなモンゴルが目指している数学教育の姿が見えてくるのである。
・数学の学力が高く評価され,数学教育が重要なものとして位 置付けられている。
・そのことが,国作りのための施策として社会的にも容認されている。(モンゴルでは,政官,経済,教育など各界の指導的立場にいる人たちに数学科の卒業生が多くおり,数学において優秀な成績を修めることが社会への進出のための有力な要件の一つになっているようである。モンゴル国立教育大学の学長,トゥグミッド博士は「私も数学科の卒業ですよ」と言われていた。)
・その背景に旧ソ連の影響がかなりみられる。 (大学の教官の多くは旧ソ連を中心としたかつての共産圏に留学した研究者であり,欧米に留学した学者が重んじられるようになったのはごく最近であるという。)
ほんのわずかな見聞をもとにモンゴルの数学教育について大変乱暴な紹介をしてしまった。間違いがあったらお詫びしなければならないが,それはそれとして,どうしても付け加えておかなければならないことがある。それは,モンゴル教育界の新たな胎動である。 前述のバトラー教授は,こうも語っておられた。
「大学でも,これまでの伝統的な授業方法を今年から変えました。学生自身が勉強するようにさせています。また,最近は数学の時間を少なくし,人間形成を重視し始めています。新しい教科書の作成も必要ですし,コンピュータによる教育も進めていかなければなりません。やることがたくさんあるのです。」実際,私が親しくお付き合いさせていただいたモンゴルの数学教育界の重鎮であり,モンゴル国立教育大学数学科主任教授であるシャグダル先生は,自国の数学カリキュラムと教科書作り着手されていた。今年あたり,それが日の目を見ることだろう。 また,リャンホァさんのこんな言葉も思い出される。「私は,モンゴルに帰ったら,モンゴルの先生達に日本の様子を話します。そして,私自身で,日本の授業のような授業を実際にやってみようと思います。」
モンゴルの教育の中に「いつか来た道」を見るような気がしないでもない。しかし,日本の算数・数学教育のほうが先を歩んでいると言い切れるかどうか。4月から始まった新学習指導要領による日本の算数・数学教育がモンゴルのそれと比べて優れているとは言い難いのではないか。「分数計算すらできない大学生がいる」ということが大きなニュースになり,そうした実態も踏まえて学習指導要領は最低基準なのだといい,その基準を下げて全員に満点をとらせるようにしようという文部行政の考え方が,それほど立派なこととも思えない。
モンゴルでは日本からみれば決して望ましい授業形態とは思えない授業が行われているかもしれない。しかし,モンゴルの教育界には,困難な状況の中で様々な問題に直面 しつつ,自立した教育をめざし,今まさに立たんとするエネルギーが感じられる。守勢一方の日本の算数・数学教育にはない教育への「こころざし」が伝わってくる。
ふと『学びを忘れ日本が沈む「知」の大競争に後れ』という教育特集を組んだときの日本経済新聞の大見出し(2000.10.23)が脳裏をかすめる。日本の算数・数学教育が掲げている「こころざし」とは何だろうか,あるのだろうか。