汐見先生に聞く~幼児教育が「深い学び」の鍵~
汐見稔幸先生プロフィール:東京大学名誉教授・日本保育学会会長・白梅学園大学名誉学長
編集部 新しい学習指導要領に「主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善」が示されました。このことについて,先生のお考えを教えてください。
汐見先生 幼児期から高校まで,この学習方法が貫かれるように強調されています。つまりは,学びのあり方の改善です。私なりに,この言葉の意味を考えてきました。そして,この言い方に「人間の学びの仕組みと秘密」がうまく表現されているように思えます。
編集部 まず「学び」については,どのように捉えるとよいでしょうか。
汐見先生 人間は経験や体験をするとき,その行為に必要な知識やスキルを使い判断をしなければなりません。例えば,2歳の子が祖父母の家に初めて行ったとき,自分の生活している家との違いにとまどうでしょう。トイレの場所や様式,テーブルではなく座卓で食事をする,ベッドではなく布団を敷いて寝る,自分の家にいない猫を見てびっくりする。この子は,その新しい状況を理解して引き受け,その状況でも合理的に行動するために,頭の中の知識や身に付いているスキルを必死に変容させなければなりません。うろちょろしているうちに,部屋のレイアウトはいろいろあり家によって違うのかもしれない,便器にもいろいろあるけど用をたすのは同じなんだ,食事や睡眠の用具やスタイルもいろいろあるんだ,最初は猫が怖かったけど慣れると怖くない。こうした新たな情報処理をするわけです。新しい事態に対応できるものに情報を変容させるのです。
この変容には,大きく2タイプがあります。第1のタイプは例えば,猫を初めて見たときの変容で,類似の情報の記憶が頭になくて,初めて記憶するという場合です。第2のタイプは,自分の家にすでに猫がいて,祖父母の家には犬がいた,動く動物は猫だけだと思っていたら別のものもいたという場合です。この第2のタイプは,一段高い位置での情報記憶ができるという変容になります。動く動物という「概念」ができてきたと言ってもいいかもしれません。
こうした経験によって,脳に新たな情報記憶と情報処理のための回路ができること,これを私たちは「学び」といっているのです。
編集部 「学び」とは,脳に新たな回路ができることなのですね。
汐見先生 ただ,この情報処理はコンピュータとは異なっているんですよ。
人間は,自分の周りにあるものを認知するとき,まず諸感覚を使って感知します。諸感覚は外界を知るときに身体が立てたアンテナのようなものです。その感知の際に,認知したものへの価値づけや意味づけを同時に行っているのです。ある部屋に初めて入ったら「あら,素敵! 気持ちいい部屋ね」とか「なにこの部屋。落ち着かないわね」と瞬時に価値判断をします。これは,もっと抽象的な対象に対しても同じです。「教育」という言葉を聞いたとき,辞書に書いてあるような語義的なものではなく,教育についてのその人の思いのようなもの「素敵なもの」とか「いやだったな」などが関連づけられます。つまり辞書的な「語義meaning」を覚えていくとともに,体験で蓄えたその語義についての感情をまぶせた「意味sense」を記憶していくのです。人は何かを認識するときには,その対象への主観による価値付けを抜いては認識できないのです。
これがコンピュータによる情報処理と全く違うところです。コンピュータに単に諸感覚のセンサーをつけて「あの絵は素敵でしょう,コンピュータくん」と聞いても,コンピュータは「わかりません。赤系統の色が〇〇%で,青系の色は△△%で・・」とでもいうしかありません。
人が何かを新しく認識してそれにかかわる情報を記憶する,そのための脳の回路ができてくる,これが「学び」だと先にいいました。その際,人は感情による価値づけをして情報処理をするということもおさえておきたいことです。
編集部 それでは,「主体的」と「深い学び」の関係についてもお聞かせください。そもそも「学ぶ」という行為は主体的であると捉えていましたが,捉え方の違いがあるのでしょうか。
汐見先生 実はこの「主体的」という言葉は,哲学の歴史で一貫して使われ,また論争になってきたキーワードです。その意味を誰もが納得する形で提示することがとても難しいということを知っておいて下さい。
そのうえで今の社会で「主体的」とか「主体性」という語はどう使われているか,ネット「SoulWork」(https://sugimuratakashi.com/shutaisei/)で調べた結果を紹介しましょう。
「主体的でない」と,どんな人間になるのか。
受け身である/指示待ちである/常に空気を読んで周りの意見に合わせる/報告をして終わる/感想を言って終わる/環境を改善せずに文句を言っている/自分がどうしたらいいか決められない/自分の人生とは関係がないことにばかり関心がある(芸能人の不倫とか)/他人の話を聞こうとしない/自分の意見がない/物事を途中で投げ出す。いつの間にかフェードアウトしている/常に自信がなくネガティブである/報酬や労いがないと動かない/全体を把握する気がない/全体が見えないため失敗を極端に恐れる
要するに,自分の意見を持っていなくて,自信がなく,能動的に動かないし決定ができない,ダメ人間の要素が並べられています。 「主体的である」とか「主体性」というのは,この逆を育てればいいということになります。それぞれ逆の言葉を入れていけばいいのです。
能動的である/「指示を待たないでどんどんやる/周りを気にしないで自分の意見を言える/報告だけで終わらずどうすべきか提案する。
こうした例を経たうえで,ここではさしあたり「何かをするときにあるいは判断するとき,その行為を可能な限り自分であるいは自己責任で行う」という場合,その姿勢を「主体的」だといいましょう。いいことであっても,させられてする場合は主体的とはいいません。自分でしたくてやっているわけではないからです。比喩的にいうと「自分は自分の主人公」という状態で生き,行動するときが「主体的」であるというわけです。「自分で選んで」行う姿勢のことです。
ただし,この「主体的」にも留意しておかなければいけないことがあります。「自分で選んで」という場合に,その選択基準には大きく分けて二種類があるのです。一つは「社会的な評価」の基準です。もう一つは「自分の命の求め」という基準です。「社会的な基準」というのは,こうすれば先生がほめてくれる,ママが喜んでくれる,こうしたらいい子と思ってもらえるなどの世間や周囲の「よい子像」,あるいは「いい人像」という評価で行動することをいいます。優等生になる,出世や高い身分を求めるなども,こうした世間基準での行動になります。また,イデオロギーや信仰を基準にすることもあります。これも「社会的な基準」です。
これに対して,「自分の命の求め」に応じてしている場合があります。例えば,学校が合わなくてつらくなり不登校になっていた子が,フリースクールに通ってそこで自分の好きな内容を自分の好きなペースで学び始めた途端に学ぶことが好きになるということがよくあります。このときこの子は自分の心の深いところで求めていた学びとようやく出会ったということです。社会でこれがいいといわれていることとは相対的に区別される,その子の遺伝子が求めている欲求にそって行動するとき,それを「自分の命の求め」に応じた行動といいたいのです。
でも,本当にしたいことを見つけるのは難しいことです。だから私たちは,世間でこれがいい人生,正しい生き方だといわれていることに合わせて生きることで,それを自分が求めていることだと思い込もうとするわけです。
「自分の命の求め」に応じた行動をするときにこそ深い欲求に基づいた行動になります。だから真に「主体的」であれば「深い学び」につながるのです。
編集部 「自分の命の求め」に応じて「主体的」であることが,人間形成上とても大きな役割があることがわかりました。このことは幼児期の教育とどのように関係しているのでしょうか。
汐見先生 実は今回の学習指導要領改訂で重視されていることのもう一つは,メタ認知的スキルを育てることです。メタ認知的スキルというのは,もともとアメリカなどで,学校での学力と社会に出たときにいい仕事ができるとかリーダーシップを取れるとかの社会的な実力に直接的な関係があまりないという研究から生まれてきた概念です。社会的な実力の高い人は,共通にある力が豊かであることがわかっていました。その力とは,対人関係力の柔らかさや丁寧さなどの社会力,そして自分の感情を理解してネガティブな感情状態をポジティブに変えることでき,ポジティブな感情状態をうまくつくる情動コントロール力,加えて好奇心が豊か,集中力が高い,楽天性が高いなどの人格特性でした。
その後,ヘックマンという経済学者たちの研究が続きました。彼らは貧しい家庭で育った黒人の子どもたちに2年間の幼児教育を丁寧に提供し,そうしなかった子とその後の育ちでどう違いが出るかというペリー・プレスクール・プロジェクトに注目したのです。その結果は簡単にいうと,メタ認知的スキルは赤ちゃんから育ちはじめ,その時期にていねいに育てると効果が後々まで続くこと,メタ認知的スキルを育てる教育は早く初めれば始めるほど効果が高く,費用が安くてすむということでした。
このスキルは,遊びに熱中する,諦めずに達成できるまで続ける,相談をうまくしながら進めるなど,子どもたちの主体性が存分に発揮できる活動を通じて育つことがわかってきました。 遊びや自発的な創作活動は,子ども自身が自分たちでやろうと決め,失敗しても諦めないように保育者がていねいに支えていくことで発展します。そこで大切なのは,自分が主人公になって活動を組み立てる,つまり主体的であるということです。
このように,子どもの主体性は,乳幼児期からの自発的な遊びや遊び的活動を通じて育っていきます。保育者が子どもたちのやることをあらかじめ決め,そこに上手に乗せていくという保育は,その意味で有効ではなくなっています。子どもたちのさまざまな活動への刺激が多様に働く環境をうまく創り続け,子どもたちの主体的な活動を活発に引き出していくこと。これが,今後の教育でもっとも大切な課題になってきたとういことです。
教育関係者は,新たな学力像を実現するためにも,幼児教育に注目すべき時代が来ています。
編集部 新しい学習指導要領で,幼児教育とのつながりが強調されている意味がよくわかりました。たいへんありがとうございました。