第8回 「辛い」と伝える
次男は,大きな郵便局の,障害者雇用のために作られている部署で働いています。主な仕事は清掃です。ジョブコーチさんがついてくださり,連絡帳で毎日,私とやりとりをしています。そこには,彼の感情表現をめぐる話題がよく出てきます。
「綺麗にした壁に,また足跡がつけられていました。『汚れていますね』と,とても悲しそうでした。」とか「お昼はランチミーティングで,お弁当が出ました。『おいしかったです』と嬉しそうでした。」と言った具合です。
そのときの,笑ったり喜んだりする感情表現は自然のものですが,悲しそうにする感情表現は訓練したものです。だから,不自然で大袈裟です。それを感情の自然な発露として受け取ってくださり,彼の気持ちに寄り添ってくださっているのが,ありがたくもあり少々申し訳ない気持ちです。それに慣れている妹だと,「わざとらしくてうざい」となります。
表情の訓練? と疑問に思われるでしょう。それも,抑える方ではなく表す方です。教室で目に付くのは,感情表現が抑えられないタイプの子どもの方でしょう。このような子どもには,我慢のトレーニングが必要です。でも,気持ちを表に出せない子どももいます。表情に動きが少ないのです。場違いな感情表現で不快な思いをさせることはありませんが,何を考えているのかわからないのも,歓迎されません。更に,表情と感情が一致しない子どももいます。例えば,本当に傷ついているのに薄笑いを浮かべていたり,謝罪するときに笑っていたり,等々。
自然に湧き上がる感情は学習できません。成長と共に,感情を制御して必要な形で伝達する方法を身につけた結果,感情そのものが成熟したように見えることもあります。うまくできない時には大人の手助けが必要です。
まず,感情には名前があることを学習します。それによって,他者に感情を伝えることが可能になるばかりでなく,自分の中で感情の整理ができるようになります。更に,「嬉しい」「悲しい」「嫌だ」といったそれぞれの感情に,相応しい表情を覚えることで,「何を考えているかわからない奴」から脱却します。笑うことだけは生まれつき上手だった次男は,悲しい表情を意図的に学習して手に入れました。だから,余計に大袈裟でわざとらしいのです。
私は夏休みに,発達障害のお子さん対象に,ワークシートを使った読書感想文講座を受け持っています。簡単な文章から,少しずつ複雑な文章を書いていき,最後に並べ直して作文としての体裁を整えます。読書感想文の課題図書には,悲しい物語も少なくなく,ある男の子は,辛い旅を続ける犬の物語の感想をこう書きました。
「ぼくの十年は,つらい十年だったけど,主人公みたいに,これからもがんばりたい。」
それを読んだお母さんは泣きました。「辛かったんだね。お母さんは,自分の辛さばかり考えて,気がつかなかった」。この気持ちが辛いということなんだ,と知ったのは彼にとって大きな一歩だったと思います。気持ちを言葉にできることは,生きていくための大きな武器なのです。
堀田 あけみ
1964年 愛知県生まれ。
1981年,『1980アイコ十六歳』で文芸賞を受賞,文筆活動に入る。
その後,名古屋大学教育学部に入学,卒業後,同大学院教育心理学科に進学。専攻は,発達心理学・学習心理学。特に,言語の理解および産出のプロセス。
現在,椙山女学園大学教授。
また,NPO法人アスペ・エルデの会で,発達障がい児の支援も行っている。
その多方面にわたる活躍は,2012年10月から翌年の1月にかけて,朝日新聞愛知県版で40回にわたる連載で紹介された。
◆著書◆
『わかってもらえないと感じたときに読む本』『おとうさんの作り方』(海竜社)
『十歳の気持ち』(佼成出版社)
『発達障害だって大丈夫 自閉症の子を育てる幸せ』(河出書房新社)ほか多数