井口時男が読む「教科書の俳句」
第4回 高浜虚子①
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桐一葉日当りながら落ちにけり 高浜虚子 | 季語:桐一葉(秋) |
切れ字:けり |
明治39年(1906)の作。
桐の葉が一枚、日に照らされながら落ちる一瞬の景。「日当りながら」が句の眼目。広くて大きい葉一枚をクローズアップして、一種のストップモーション、スローモーションみたいな効果がある。そのため、落下の時間が引き延ばされ、ゆったり舞いながら落ちてゆく感じも出る。口を大きく開けるア段音が多くてちょっとたどたどしい発音になるのも、日の当たった明るさや微妙に引き延ばされた時間感覚に貢献している。
転じて「落ちにけり」はほとんど口を開かないイ段音中心で、発音の速度を速めて一気に暗く沈む。宙をゆったり舞った桐の葉も、最後はばさりと音立ててあっけなく地に落ちるのだ。
末尾の「けり」の詠嘆以外に作者の主観を表示する言葉はない。その意味で、この時期の虚子にはめずらしい、いわゆる「純客観」の写生句である。
しかし、句の主観性は「桐一葉」という季語そのものが深くたたえている。
もとは「一葉落ちて天下の秋を知る」(『淮南子』)に由来し、何の木の葉とも特定されていなかったのが、日本ではいつか桐の葉に定まったのだそうだ。生命の盛りの夏が終わり、さびしい凋落の季節が到来したことを知るのである。しかも「天下の秋」とまでいうのだから、かなり観念性の強い季語だ。
たとえば手元の歳時記には子規の〈夏痩の骨にひゞくや桐一葉〉が載っている。これは視覚でなく、ばさりと庭に落ちた音。生命の盛りの季節にさえ痩せた病床の子規には、凋落の季節到来を告げるその音が、自分自身の凋落(死)の予兆であるかのごとく、骨にまでひびくのだ。
歳時記が記す季語の「本意」は、その景物を詠んだ歌や句はもちろん、伝説や物語まで含めた過去のテクストの集積から形成されたものだ。背後には日本人の心の経験の集積があるといってもよい。眼前の桐の葉一枚は現在の感覚の対象だが、「桐一葉」という言葉はそういう累積した観念の伝統を背景にひそめているのである。
まして、この作の二年前、明治37年3月、坪内逍遥の野心的な史劇『桐一葉』が初演されて大いに好評を博したばかりだった。この史劇において、「桐」はまず豊臣家延命のために奔走する主人公片桐且元の姓の一字を指し、さらに豊臣家の桐の家紋を指す。且元の奔走は実らず、大阪城は落城し、豊臣の「天下」は滅ぶ。まさしく「桐一葉落ちて天下の秋を知る」。「桐一葉」という言葉はそういう濃厚な観念的連想をまとう言葉だったのである。
写生が描くのは眼前の現在である。しかし、季語の「本意」は過去から連綿と受け継がれた伝統的な観念を背負っている。したがって、「純客観」の表現なるものがもし可能だとすれば、季語の「本意」が背負う過去の観念を極力払拭しなければならないことになる。
その意味でも、この句の眼目は「日当りながら」である。桐の葉一枚を大きくクローズアップしたこの新鮮な描写があればこそ、現在の感覚的映像が強く前景化して、凋落という伝統的観念はひとまず斥けられて背後に隠れるのである。むろんそれは、ひとまず斥けるだけであって完全に排除してしまうわけではない。そもそも言葉の歴史性を排除することなどできないし、なにしろこれは「天下の秋」を告知する「桐一葉」の落葉なのだ。
だから、鑑賞に際しては、まず桐の落葉の感覚的描写の鮮度を味わうべきであって、しかるのち、凋落の季節の始まりというしみじみした感じが、微妙な余韻としてただよう、という順序になるだろう。
ちなみに、山本健吉『現代俳句』は、「葉の枯色が光線を得て、一瞬の
写生か観念か、客観か主観か、現在か過去(伝統)か--突きつめてみれば、有季定型俳句における「写生」表現の根本にはこういう二律背反が潜んでいる。
私がここまで「観念」という言葉で呼んできたものを、当時の子規門は「空想」と呼んでいた。「写生趣味」か「空想趣味」か--これが結局、虚子と碧梧桐に袂を分かたせる根本問題だった。
逍遥の『桐一葉』が初演されたちょうどそのころ、虚子は興味深いエッセイ「俳話(二)」(「ホトトギス」明治37年3月)で、子規と意見が分かれたときの思い出を書いている。
ある日の夕暮れ、子規と二人で道灌山の茶店に休んでいたとき、茶店の下の崖に夕顔の花が白々と咲き始めたのを見て、子規が言う。「夕顔の花といふものゝ感じは今迄は源氏其他から来て居る歴史的の感じのみであつて俳句を作る場合にも空想的の句のみを作つて居つた。今親しく此夕顔の花を見ると以前の空想的の感じは全く消え去りて新たらしい写生的の趣味が独り頭を支配するやうになる。」
しかし、虚子は師の感想に同意できず、反論する。虚子の主張はこうだ。
「夕顔の花其ものに対する空想的の感じを一掃し去るといふ事は、折角古人が此花に対して附与して呉れた種々の趣味ある連想を破却するもので、たとへて見ると名所旧蹟等から空想的の感じを除き去るのと同じやうなものである。名所旧蹟は一半の美は其山水即ち写生的趣味の上に在るが、一半の美は歴史的理想即ち空想的趣味の上に在る。『夕顔の花』も同じ事で、一半の美は其花の形状等目前に見る写生趣味の上に在るのであるが、一半の美は源氏以来の歴史的連想即ち空想的趣味の上に在る。然るに全く空想的趣味を除き去るといふ事は花の一半の美を殺し去るもので、又名所旧蹟から歴史的連想を除去するのと何の異るところも無い。」
しかし子規は、「其は仕方が無い。写生趣味の上に立脚する以上は自然の結果として空想趣味を排斥せねばならぬやうになる。一方では甚だ殺風景な感じがするが、其代り一方ではまだ古人の知らぬ新たらしい趣味を見出す事が出来るではないか」と答えた。
「併し当時余は此の論に何処迄も不平であつた」と虚子は記している。
おそらく、子規没後だから書けた本音だったろう。そして、碧梧桐との俳句観の違いが鮮明になりつつあった時期だからこそ書いたのだろう。
だから虚子はつづける。
たとえば「春雨」にしたって、実景はしょぼしょぼ降る雨や道路の泥濘や泥中の花にすぎないではないか、我々が「春雨」に詩趣を感じるのは過去のテクスト(文学)によって涵養された「空想趣味」のおかげである。現に我ら子規門も「極端に空想趣味を排する写生趣味が玉石同焚の殺風景を演じた」ではないか。そしていま、「碧梧桐は写生趣味にかぶれ過ぎて」詩趣をないがしろにしてしまっている。「写生趣味の長処は材料の斬新なところに在るが、写生趣味の短処は趣味の平浅なところに在る。」
子規は俳句世界の革命家だった。「写生革命」遂行のためには子規は過去(伝統)を切断することも厭わない。まったく乱暴には違いないが、革命とはいつも暴力的なものだ。
実際、安易な「空想趣味」(伝統的観念)への依存が「月並俳句」を量産してきたのだ。過去を断ち切って現在の多様性を解放せよ、これが「写生革命」のスローガンだ。
虚子もそれは承知している。だが、師の革命はやりすぎだ、と感じてしまう。だから虚子は、写生も伝統も、客観も主観も、である。現に〈桐一葉〉はそういう句だった。それはしかし、革命遂行の見地からは微温的で折衷的で妥協的で修正主義的に見えてしまう。
碧梧桐は子規の立場をいっそう過激化した。やがて「新傾向」を主張し始める彼は、俳句革命の最前線で闘う「前衛」である。(軍隊用語だった「前衛」はロシア革命の影響下、大正中期以後は革命用語になる。)
「前衛」碧梧桐の眼には、虚子は「反動」勢力に流し目をくれる「守旧派」、せいぜいのところ、「写生革命」のしんがりをもたもた歩く「後衛」にすぎない。
だが、虚子には、のろくさい自分こそが俳句本来の「正道」を歩む者だという自負があった。当初やや遠慮がちに表明され始めたその自負は、やがて大正時代になると、「前衛」碧梧桐の向こうを張って、堂々と自信に満ちて開陳されることになる。
なお、虚子はこの頃、「俳諧仏」が俗にくだけた口調で大衆向けの「法話」をするという戯文仕立ての「俳諧スボタ経」(「ホトトギス」明治38年9月)を発表している。
「法話」を聴いた一人が質問する。俳句は「文学」でなければならぬと説くお経があって、そのため、平凡はだめだ、陳腐はだめだ、「斬新な奇抜な文学的な俳句を作れ」としきりに叱咤されつづけてとても苦しい、そんな叱咤に応えられる天才はほんの少数、天才なき我ら大衆はどうしたらよいでしょうか、と。
「俳諧仏」はこう答える。
「汝等大衆、俳諧国に生るればこそこの宝塔を見この宝鈴を聞くことが出来るのであるぞよ。たとへ下手でも陳腐でも、俳句は一ぢや」、「上手とか下手とかいふのは差別の側ぢや。平等の側に立て。平等の側に立つて俳句の功徳を歓喜し微妙を愛楽せよ。而して後ち又差別の側に立て。差別の側に立つて勇猛せよ精進せよ、痛棒をも食へ垢離をも取れ、難行苦行とは此処の事ぞよ。而して悟れずとも進まずとも唯この一道に安着せよ。この一路に繋がれよ。天才ある一人も来れ、天才無き九百九十九人も来れ。」
大衆とは仏教における凡愚であり俳句における凡才である。虚子はその凡愚凡才の大衆を包容するのだ。俳句という簡便で庶民的な詩型は大衆的裾野を切り捨てられないし切り捨ててはならない、という自覚が虚子にあったからである。革命における「後衛」とは広範な大衆と共に歩む者のことなのであった。
ここに、近代における稀有な大衆組織者としての虚子の歩みが始まる。
では、またしても拙句。
桐の葉を詠んだことはないので桐の花の句を。二〇一七年五月、佐渡の旅にて。
花桐を数へ数へて朱鷺の島 (『をどり字』*二つ目の「数へ」はくの字点)
五月晴れの空の下、尖閣湾からたらい舟で知られる小木港まで一時間ほどのドライブ。途中、開けた丘陵地帯の道路わきに、紫の花をつけた桐の木を発見。桐の花がこんなに美しいとは初めて知った。しばらく走るとまた見つけた。うとうとしていた同行者も目を覚まして、私と競うように花桐を数え始めたが、ふと思い出したように、五月は紫の花の季節なのだ、と言う。なるほど、藤の花、桐の花、菖蒲、杜若、桔梗、苧環、やがては紫陽花も咲くだろう。上機嫌で小木港に着いた私は、へっぴり腰でたらい舟を漕ぐ真似をしながら「ひばりの佐渡情話」を一節唄ったりしたのだった。