井口時男が読む「教科書の俳句」
第5回 高浜虚子②
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春風や闘志いだきて丘に立つ 高浜虚子 | 季語:春風(春) |
切れ字:や |
大正2年(1913)2月11日、三田俳句会での作。数年間小説(写生文)に熱中していた虚子が俳壇に復帰して、碧梧桐の「新傾向」と闘う決意を表明した句として知られる。
1月には〈霜降れば霜を楯とす
「法の城」は世俗に抗して仏法の真理を守りつづける寺院のことだが、ここでは有季定型という俳句の「真理」を守ろうとする自らの立場を寓している。霜降るほどに状況は厳しいが、その厳しさで防備の「楯」を鍛えて「真理」護持に努めよう、という心である。
そして春。彼は「闘志」をいだいて春風の丘に立つ。忍耐の季節は去り、いよいよ防備から攻勢に転じるのだ。
すっくと立った彼の眼下には、俳句の正道を踏みはずして「新傾向」という迷妄に惑わされた俳壇の風景が広がっている。「敵」はまだまだ四囲に満ちている。しかし、彼はすでに敵陣を足下に踏まえ見下ろしている。眼を上げれば澄んだ水色の春の空。そよ吹く風は万物よみがえって生動する春気を運び来る。彼の闘争の前途は明るい。
虚子自身が書いている。「余は闘はうと思つてをる。闘志を抱いて春風の丘に立つ。句意は多言を要さぬ。」(「ホトトギス」大正2年3月)
まさしく「句意は多言を要さぬ」。この明快さが小学校や中学校の教科書にも採用される理由だろう。一句独立した作品として読めば、文学史的知識など不要、子供だって各自の体験や想像を「闘志」に代入できるのだ。
だから、四十数年前、新米教師の私は、高校一年生の教室で、まるで俳句習いたての星飛雄馬(「巨人の星」)や矢吹丈(「あしたのジョー」)が作った句のようじゃないか、と言ったものだった。星飛雄馬なら彼の瞳には炎がめらめらと燃え上がっていただろうし、矢吹丈なら燃えつきて真っ白な灰になるまで闘いつづけることだろう。--俳句になど関心なさそうな生徒らがうれしげにうなずいてくれた。
なお、当時の私は教室では「春風」を「はるかぜ」と読みつつ、内心「シュンプー」と音読みするのがよいと思っていた。漢詩漢文脈に発句を織り込んだ蕪村「春風馬堤曲」の「シュンプー」である。その方が「トーシ」と呼応して強く響く。作者が星飛雄馬や矢吹丈ならためらわず「シュンプー」だ。
けれども今は、おだやかに「はるかぜ」でよいのだと思っている。その方が虚子らしい。表面のどかにおだやかに、しかし内心熾烈に執拗に、そういう二重底三重底のしぶとい屈曲が虚子という人の「闘志」のあり方のように思うから。
むろん、星飛雄馬だの矢吹丈だのと、四十年余も昔の新米教師の教室受けを狙った半ば冗談。けれども半ばは真面目である。
なにしろ、句の中心は「闘志」の表明。すなわち言志または述志。こんなストレートな述志の句は、虚子にめずらしいだけでなく、そもそも俳句にめずらしい。
「詩言志(詩は志を言ふ)」(『書経(舜典)』)。これが中国古典詩の基本定義だ。それを踏まえて、たとえば幕末の思想家佐藤一斎は自らの思想の記録を「言志録」と名づけたし、山本五十六は日中戦争下および太平洋戦争開戦時の二度、軍人としての覚悟を披歴した漢詩に「述志」と題した。
しかし、日本では古くから漢詩と和歌が棲み分けたため、公的事象にもかかわる述志は漢詩にまかせて、和歌はもっぱら私的な「情」を述べるものとなった。
それでも幕末維新の志士たちは述志の歌を詠みもしたが、和歌から派生した俳句は述志の器としては短かすぎた。加えて近代俳句は「写生」に偏したため、俳句はますます述志に縁遠いものとなり、ついに虚子の「客観写生」や「花鳥諷詠」がほとんど述志の息の根を止めたといってよい。実際、うかつに俳句で志を述べようとすれば、右(たとえば戦時中の翼賛俳句)も左(たとえばプロレタリア俳句)も、一種のスローガン俳句みたいなものに堕しがちだったのである。
だからこそ、これがあの高浜虚子の句か、という驚きが新米教師の私にあった。今日でも同じ驚きをいだく読者は多いだろう。
なるほど〈霜降れば〉の句が仏教に寓して自身の志の内容表明に踏み込んでいるのに対して、こちら〈春風や〉の方は、春風の丘という舞台設定を描くだけで、「闘志」の内容は口にしない。とはいえ、句の眼目は「闘志」すなわち内心の「意志」だから、これほど「主観的」な句もあるまい。
だが、実はこの時期、虚子は、子規とも碧梧桐とも異なる独自路線の中心に「主観性」の再評価を掲げていたのである。(その一端は前回〈桐一葉〉の項で述べた。また、子規が若き虚子の特色を「主観的」と判定していたことは碧梧桐〈赤い椿〉の項で紹介した。)
たとえば、「背景ある句(二)」(「ホトトギス」明治41年(1908)7月)では、子規門で蕪村が話題になる以前に「純客観」の代表と目されていたという凡兆の〈初潮や鳴門の浪の飛脚船〉を例に、次のように述べている。
たしかに、初潮の鳴門の光景を描いたこの句には「一字の主観的用語も無い」。しかし、「海」でもなく「潮」でもなく、「洋の真中でうねり立つ波濤」を思わせる「浪」という言葉を選んだことの効果をよくよく考えてみれば、この句の「背景」に凡兆の「主観」が大きく働いていることがわかるはずだ。
「言を換へれば、作者は実景を写して此句を作つたのでは無い。天地の間に此景色を創造したのである。此景色を創造するには岩を鑿る鑿をも要する。山を移す
この結論は、凡兆の句の評価を超えて一般化できる。つまり、いかに「純客観」と見える句であろうと、言葉を選択し配列し構成して一句の「世界」を「創造」するのは作者の「主観」だ、ということである。これは表現論の基本そのものだ。ここでの虚子は根本的に正しい。
虚子の立場は、当然、虚子が指導する「ホトトギス」の立場である。
だから、〈霜降れば〉や〈春風や〉を詠んだ時期の「ホトトギス」(大正2年1月)では、当時吉野の山奥に住んでいた原石鼎の句〈鹿垣の門鎖し居る男かな〉〈空山へ板一枚を荻の橋〉〈頂上や殊に野菊の吹かれ居り〉などを列挙して、これらの句の価値は、技巧でも形式でも季題趣味でもなく、「全く作者が久しい山住みから得て来た淋しい、力のある主観に在ることを思はねばなりません」(傍点原文)と述べて、こう結論するのだ。
「是等から考へて見ても俳句の上の大問題は、五七五の調子の破壊でもありません、季題趣味の破壊でもありません。先づ作者めいめい(*二回目の「めい」はくの字点)の主観の涵養であります。」(傍点原文)
「五七五の調子の破壊」「季題趣味の破壊」が碧梧桐の新傾向を指すことはいうまでもない。それ以上に「主観の涵養」が大事だというのだ。
さらに虚子は「ホトトギス」大正4年(1915)4月から「進むべき俳句の道」を長期連載しはじめるが、その冒頭部、「主観的の句」と題して、「子規居士時代の俳句
子規の客観性を重視した「写生」の主張は、「小主観」に自足した当時の「月並俳句」を打破するために絶大な効果があったが、主観性をないがしろにする弊害があって、しだいに「写生」は平板化した。だから自分は「写生」に作者の「感興」を、すなわち主観性を再導入すべく努めた。その傾向は「ホトトギス」門下に近年ますます顕著になり、いまや「恰も百華が一時に咲き乱れたやうな偉観」を呈するに至った。――そう述べて虚子は、渡辺水巴、村上鬼城、飯田蛇笏、前田普羅、原石鼎ら、錚々たる門下たちの秀句を順次紹介論評していくのである。それはまさしく、「ホトトギス主観尊重時代」とも呼ぶべき壮観だ。
だが、2年余りつづいた連載の最後(大正6年8月)に突然転じて、「結論」としてこう記すのだ。
「私は本論の初めに、近来の句の著しい傾向の一つは主観的であると言つた。さうしてこれが子規居士の主張した客観主義よりも一歩を進めたものであると言つた。其言の誤りでないことは宣べ来つた各人の句を見ることによつて明白となつたことであらう。然し乍らこゝに一大事を閑却してはならぬ。何ぞや、曰く、
客観の写生。」
「客観の写生」には圏点が付してある。
この時期の虚子にとって、客観性と主観性は俳句表現の両輪だった。子規の「写生」論が客観性に偏していたから主観尊重を説き、いま主観性に偏する兆候が見えたから客観尊重を説く。これが「人を見て法を説く」指導者=教育者としての虚子のバランス感覚であり、懐の深さである。
さて、虚子と碧梧桐の闘いは虚子の圧倒的勝利に終わり、碧梧桐は昭和12年(1937)2月1日に没する。そのときの虚子の句も紹介しておこう。
たとふれば
ベーゴマなら闘争し合う独楽だが、そう限る必要もあるまい。高速回転する二つの独楽、離れたり接近したりしながら、触れ合ったとたんに弾きあう。それはそのまま、同郷同窓、少年時から深い友情に結ばれつつ、ともに俳句に志して子規門の高弟と並び称されながら、子規没後に袂を分って角逐をつづけることになった二人の生涯の軌跡である。
なんと卓抜な比喩だろう。写生句ばかりが喧伝されるが、私はむしろ、虚子の比喩の句に圧倒され、圧倒されつつ惚れ惚れと魅惑される。
以下、虚子自選句集から目につくまま比喩の句を抜き出してみる。
年を以て巨人としたり歩み去る (大正2年12月)
たとふれば
旗のごとなびく冬日をふと見たり (昭和13年2月)
初蝶を夢の如くに見失ふ (昭和14年3月)
大寒の
虹消えて忽ち君の無き如し (昭和19年10月)
昭和期、ことに碧梧桐追悼で〈たとふれば〉を詠んで以来比喩句が増えているのが興味深い。ただし、昭和の俳句はモダニズム詩の影響を受けて隠喩の多義性を愛好し始めるのだが、虚子の句はどれも直喩である。だから、比喩でありながら句意も明快で力強い。俳句表現の平明単純を尊んだ虚子らしい。
虚子は昭和期に入ると片意地じみるほど「客観写生」「花鳥諷詠」に固執し、それが水原秋桜子らの「ホトトギス」離脱を招いて新興俳句運動の勃興を促すことになる。だが、虚子自身の実作は自分が設定したその規範を平然と逸脱しているのだ。
これもまた、虚子の二重底三重底の懐の深さというべきか。あるいは、「客観写生」も「花鳥諷詠」もあくまで人を見て説いた法、つまりは弟子たちへの指導の方便であって、指導者自身は縛られることなく自由だ、という特権の行使だったか。とにかく虚子は一筋縄ではいかない。
拙句。
春風やクラリモンドは自転車で
これは「はるかぜ」。「クラリモンド」とは何者か? 実は我が敬愛する詩人の詩からの借用なのだが、知る人ぞ知る、ということにしておく。
述志らしき句も。
冬木立注釈無用で生きてみろ (『天來の獨樂』)
これも「句意は他言を要さぬ」。