井口時男が読む「教科書の俳句」
第8回 正岡子規③ ――俳句とユーモア
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糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな 正岡子規 | 季語:糸瓜(秋) |
切れ字:かな |
〇子規の絶筆三句
子規、碧梧桐、虚子と続けてきたが、最後にふたたび子規で締めくくっておきたい。
子規は明治22年(1889)5月9日の夜、初めて喀血した。慶応三年(1867)生れの子規は明治という元号とともに歳をとったから22歳だった。
翌日医者に診てもらったら肺だと言われた。医師は結核とまではいわなかったが、もし結核なら不治の病である。その夜、再び血を吐いた彼は、深夜にかけて一気に、
卯の花をめがけてきたか時鳥
卯の花の散るまで鳴くか子規
などと四五十句もホトトギスの句を作った。卯の花もホトトギス(時鳥、子規)も初夏の景物だが、「啼いて血を吐くホトトギス」(ホトトギスが鳴くときに口中の鮮紅色が見えるので昔からこういうのだそうだ)の心である。「子規」という号もこの時定まった。
明治28年の大喀血については〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉の項で書いた。29年からは結核菌が体に回って脊椎カリエスを引き起こして病臥の日が多くなった。〈いくたびも雪の深さを尋ねけり〉はそういう中で詠まれたのだった。やがてまったく起き上がれなくなり、文字どおり「病牀六尺」の日々が続いた。(「病牀六尺」は35年5月5日から新聞「日本」に連載したエッセイのタイトル。)そしてついに、明治35年9月19日午前1時ごろ息を引き取った。俳句革新、短歌革新と、病苦の中で休みなく闘い続けた生涯だった。
亡くなる前日の9月18日の昼前、仰臥したまま、紙を貼った画板の左下を自分の左手で支え、画板の上の方は妹の律に持ってもらって、墨を含ませた筆を碧梧桐から受け取って書いたのがいわゆる「絶筆三句」だった。
糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひの糸瓜の水も取らざりき
〇絶筆三句の構成
碧梧桐の証言では、休み休み、この順序で書いたのだそうだ。私にはこの順番がおもしろい。
いきなり、〈糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな〉
肺を病むと痰がたまる。その痰が喉に詰まって息絶えた「仏」。子規は自分をすでに死者としてながめているのだ。すべては終わった。私は死んだのだ。
「糸瓜」はただの季感を表示するだけの季語ではない。糸瓜の茎から採取する水には痰をきる薬効があるといわれていたのだそうだ。現に子規の家は小さな庭に糸瓜を栽培していた。(糸瓜の棚は今も東京根岸の子規庵にある。)つまり「糸瓜咲いて」は、散文的に意味をとれば「糸瓜が咲いたのに」という逆接、皮肉が含まれている。
ではなぜ彼は痰が詰まって死なねばならなかったのか。痰が一斗も出たからだ、糸瓜の水も間に合わなかったからだ、というのが第二句。さらに、なぜ糸瓜の水は間に合わなかったのか。一昨日の糸瓜の水を採取しなかったからだ、一昨日の夜は満月、満月の夜の糸瓜の水が最も効能があるといわれていたのに採取しそこねたのだ、というのが第三句だ。
つまり、この三句は、のっけに結末を提示し、以下、さかのぼって補足的にその原因を述べる、という構成になっているのである。私はすでに死んでしまった、なぜ死んでしまったのかといえば⋯⋯という順序だ。
思えば、子規という人は、大事な時は、いつもこういう順序で物事を述べた人だった。まず意表を突く大胆な結末(結論)の提示、次いでおもむろに原因(理由)の説明、というふうに。
たとえば芭蕉を論じた「芭蕉雑談」(明治26年)。
「余は劈頭に一断案を下さんとす。曰く、芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ、上乗と称すべき者は其何十分の一たる少数に過ぎず。否、僅かに可なる者を求むるも
また、「歌よみに与ふる書」(明治31年)の冒頭。
「近来和歌は一向に振ひ
そして「再び歌よみに与ふる書」(同前)の冒頭。
「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に
「俳聖」芭蕉、和歌の典範と崇められてきた『古今集』と紀貫之、その権威を破壊する大胆な結論の提示だ。まさしく神話破壊者の高らかな言挙げ。大声一喝、読者の常識を打ち砕き、自説への注目を集める颯爽たるパフォーマンスだ。子規はこうと決めたら右顧左眄しない。単刀直入、まっすぐ核心に斬り込むのである。
子規は最後の三句でも同じスタイルを貫いていたのである。
子規は死の間際まで子規だったのだ、と思う。肉体は亡び間近でも、精神はなお衰弱していない、目前の死に屈服していないのだ、と。
〇ユーモアと客観的な見方
「痰のつまりし仏」は悲痛である。しかし、どことなくおかしみがあってユーモラスにも感じる。
そう思えば、二句目の「痰一斗」もちょっと滑稽だ。一斗は一升の十倍、約18リットル。もちろん誇張である。漢詩に長じていた子規のこと、いわゆる「白髪三千丈」(もとは李白の詩「秋浦歌」の一節。一丈は3メートル)式の誇大表現だ。だから、一面で悲痛さを強調しながらも、荒唐無稽なまでの誇張は反面で戯画化めいた効果をもたらすのだ。その効果を子規が自覚していないはずはない。
つまり、死を目前にしながら、子規は苦痛の中に埋没していないのだ。
実は子規は、明治22年の初めての喀血後に「喀血弁」という文章を書いていた。地獄の閻魔大王の前に引き出されて己が半生についてあれこれ陳弁させられる、という設定である。死を意識せずにはこんな文章は書けまい。事態は深刻だ。けれども、赤鬼青鬼や閻魔とのやり取りで進行するこれは戯文仕立てなのである。深刻さとユーモアが共存しているのだ。
さらに、死の前年である明治34年2月には「死後」という興味深いエッセイも書いていた。
死というものの感じ方には客観的と主観的の二種類あって、主観的の方は「自分が今死ぬる様に感じるので、甚だ恐ろしい」が、客観的の方は「自己の形態が死んでも自己の
以後、前年の夏に実践してみたという客観的な見方をつづっていくのだが、まず棺の隙間の詰物には何がよいか、おが屑はどうか
子規のいう客観的はあくまで具体的、具象的である。「写生」の精神だといってもよい。その結果、エッセイ全体が戯文めいてきて、まさしく「滑稽に落ちて」おかしみが生じるという次第だ。ここでも子規は、死というものと向き合いながら、しかし、心のゆとりを失っていないのである。
つまり、絶筆の〈糸瓜咲いて〉は、死後の意識が「仏」になった自分を眺めているという設定において、この客観的な見方の実践にほかならないのである。
〇写生とユーモア
では、ユーモアを生みだす心の働きとはどういうものか。(以下は拙著『金子兜太 俳句を生きた表現者』で述べたことの簡略な再説である。同書では、俳句の笑いを俳諧の時代からの表現史として、イロニーやウィットなどとの区別も含めて論じておいた。参照していただければ幸いである。)
学生時代から子規の友人だった夏目漱石は、「写生文」(明治40年=1907)というエッセイで、写生文と普通の散文とは「作者の心的状態」が根本的に違うのだ、と述べて、「写生文家の人事に対する態度」は「大人が小供を視るの態度」「両親が児童に対するの態度」だと書いている。たとえば、子供は実によく泣くが、親は客観的に見てたいした問題でないことを知っているから、親の態度は「微笑を包む同情」になる。同様に、世事万端そういう態度――状況に埋没した当事者の立場を離脱した同情ある第三者の態度――で現実を見る写生文には「ゆとり」や「余裕」が生じるので「滑稽の分子を含んだ表現」になる、というのだ。
漱石は「ユーモア」という言葉を使ってはいないが、これがすぐれたユーモア論であることはまちがいない。しかも漱石は「かくのごとき態度は全く俳句から脱化して来たものである」とまとめているのだ。むろん、「写生文」は文章近代化の試みとして子規が提唱して始めたものである。
20世紀の精神分析学を樹立したフロイトも、漱石の「写生文」からほぼ20年後のエッセイ「ユーモア」(1928年)で、ユーモアは「大人が子供に対するような態度」、「子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみが、本当はたいしたものでないことを知って微笑している大人」(高橋義孝・池田紘一訳)の態度から発するのだ、と述べている。
フロイト用語では、子供が「自我」、大人が「超自我」に当る。「超自我」は子供に社会のルールや掟を躾ける支配者にして保護者たる両親(ことに父親)の権威が内面化されたもので、文化論的には一神教の「父なる神」に比定できる。
神の視点で自分を見るのだから、究極の客観視である。しかも、通常は自我に対する厳しい監視者、時には処罰者でさえある「超自我」が、めずらしくも自我への愛情や同情を示すところにユーモアは生まれるのだ。「超自我がユーモアによって自我を慰め、それを苦悩から守ってやろうとする」のである。対象(この場合は自我自身)への愛はユーモアの必須の要件なのである。
もちろん漱石にも子規にもそんな一神教の神などいない。しかし、〈糸瓜咲いて〉の子規は、死者となった自分を死後の世界から見ている。究極の客観視である。この場合、「超自我」という一神教的超越者の役割を果たしているのは「自然」という観念だろう。「自然」が自己から離れて究極に引いた視点を可能にしたのだ。生死という人事上の大問題も自然の一現象として眺めるのは俳句(俳諧)の得意としたところだ。
〇運命への「反抗」としてのユーモア
フロイトは「ユーモア」で、月曜日に絞首台に引かれてゆく罪人が「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」とうそぶく場合を例に挙げていた。ドイツ語でいうガルゲンフモール(Galgenhumor)、絞首台のユーモアというやつだ。もちろん強がりである。日本語なら「引かれ者の小唄」という。だが、泣きわめかず、強がれるだけでもたいしたことなのだ。このとき、罪人の「自我」が「超自我」の位置に移行して、子供である自分自身の恐怖をなだめ、迫りくる死という運命を冗談で笑いとばそうとしている、だからユーモアには、ただのあきらめではなく、現実に対する「反抗」が含まれている、とフロイトは述べていた。
子規の絶筆三句についても同じことが言えるだろう。すでに述べたとおり、肉体は亡びかかっていても、子規の精神はちっとも衰弱していないのである。子規は、たじろぐことなく、死を見据え、精神として死に「反抗」し、恐怖をユーモアに変換しているのだ。
最後に紹介しておきたいことがある。
フロイトに学んだヴィクトル・E・フランクルという精神医学者がいた。第二次世界大戦中、アウシュヴィッツの絶滅収容所に送り込まれ、かろうじて生き延びたフランクルは、収容所内の悲惨な状況を記録し省察した『夜と霧』を出版したが、その中で、収容所にもユーモアはあった、と書いている。彼はいっしょに強制労働させられていた友人と、一日に一度でも「愉快な話」を見つけよう、と約束し実践したというのだ。
「もちろんそれはユーモアの芽のごときものに過ぎず、また数秒あるいは数分間だけのものであった。ユーモアもまた自己維持のための闘いにおける心の武器である。周知のように、ユーモアは通常の人間の生活におけるのと同じに、たとえ既述の如く数秒でも距離をとり、環境の上に自己を置くのに役立つのである。」(霜山徳爾訳)
ユーモアが人間としての尊厳と誇りを守ってくれた、というのである。
〇拙句
例によって「おほけなく」も拙句を。
短夜を腰の伸びたる仏かな (句集『天來の獨樂』)
1985年7月28日、祖母が亡くなった。日清戦争の年に生れて満90歳だった。(あとで確認したら、中上健次が描いた「オリュウノオバ」のモデル女性より三歳年下だった。)貧乏な家から貧乏な家に嫁ぎ、夫が病弱で早世したので朝から晩までわずかな田畑を這いずり回って生きた百姓女だ。乗り物に酔うので村から一歩も出たことがなく、村で生まれ村で生き村で死んだ。子守に追われて小学校にもろくろく行かず、読み書きができなかったが記憶力に秀で、昔話をいっぱい覚えていて、寝物語に聞かせてくれた。その素朴で野卑な昔話が私の「文学のふるさと」(坂口安吾)だ。晩年はすっかり腰が曲がっていたが、不思議にも亡骸の腰はまっすぐ伸びていたのである。
Jアラートさわぎ青瓢簞ぶらり (句集『をどり字』)
近所の小学校の菜園に糸瓜の棚と瓢簞の棚が並んでいる。糸瓜の方はまだ詠んだことがないので瓢簞の句を。
2017年8月29日朝6時、テレビを観ていたら、「Jアラート」(正式名称は「全国瞬時警報システム」というのだそうだ)がけたたましく鳴り、北朝鮮がミサイルを発射したから頑丈な建物や地下に隠れろと言う。初めてのことで驚いたが、本当に狙われたら警報から数分で着弾するだろうに、こんな警報に何の意味があるか、などとあれこれ思っているうちに10分も過ぎたので散歩に出たら、学校菜園にまだ青い瓢簞がいくつかぶら下がっていたのだった。なお、「青瓢簞ぶらり」には高田保の名エッセイ集のタイトル「ぶらり瓢簞」の残響がありそうだ。