もう一度古典を読もう
コラム 「女房」ってそもそも何?
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「女房」とは、一人住みの「房」、すなわち部屋を与えられ、宮中や貴族の屋敷に仕えた女性のことです。娘を天皇に入内させるような上流貴族は、娘に仕える女房を精選しました。というのも、女房の主たる役割は、自分の仕える主人が、天皇に寵愛されたり、男性貴族たちに信頼されたりするように努めることであったからです。したがって、女房には何よりも高い教養や鋭い才知が必要とされました。
宮中に何人ぐらいの女房がいたかはわかりませんが、例えば、藤原道長が娘の
●清少納言 歌人・随筆作者。父は清原元輔。16歳の頃に結婚して男児をもうけたが、後に離別した。正暦4年(993)頃、一条天皇の中宮定子(藤原道隆の娘)に出仕し、定子が没した長保2年(1000)まで仕えた。その後の消息は明らかでないが、晩年は零落したとも伝えられている。(966―?)
●紫式部 歌人・物語作者。父藤原為時は文章道出身の学者。藤原宣孝と結婚し、娘賢子(大弐三位)を産んだが、早く夫に死なれ、一条天皇の中宮彰子のもとに出仕した。『源氏物語』は、夫の死後に書き始めたとされる。中宮彰子が一条天皇の皇子敦成親王(後一条天皇)を出産した時のことや清少納言・和泉式部などの人物評価などを、『紫式部日記』に書き残している。(970?―?)
●和泉式部 歌人。父は学者の大江雅致。和泉守橘道貞と結婚し、小式部内侍を産んだが、為尊親王(冷泉天皇の第三皇子)と恋に落ち、親王没後は、弟宮敦道親王の寵愛を受けるようになった。敦道親王の没後、一条天皇の中宮彰子に仕えた。また、寛弘7年(1010)頃、藤原保昌と再婚したといわれる。情熱的な恋の歌に優れている。生没年未詳。